Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

風に寄せて

     

  しかし 僕は かへつて来た
  おまえのほとりに 草にかくれた小川よ
  またくりかへして おまへに言ふために
  だがけふだつて それはやさしいことなのだ と

 

 今週の月曜日、梅雨明け直前の祝日の午後のこと。もうそろそろかな、と思わせるような日差しが少しずつ勢いを増し、夏の香りを含んだ風が開け放した窓を通り抜けていた。からっとして気持ちのいい風だった。しかし天気予報では雨の心配をしている。九州北部の豪雨はまだまだ予断を許さない状況だった。また明日から梅雨空に逆戻りなら、せめて気持ちのいいこの風を、少しばかり楽しんでいようか、などと思いつつ、頬に風を感じながら頭に浮かんできたのがこの一節。立原道造の詩、「風に寄せて」の冒頭部分である。

 立原道造の詩を初めて知ったのは、高校時代の現代国語の教科書だった。恐らく入学直後の話だ。それは、「ひとり林に・・・」という作品だったが...そうそう、たしか授業中たまたま指名され、みんなの前でその一編を朗読したのだった。

 「だれも 見ていないのに 咲いている 花と花 だれも きいていないのに 啼いている 鳥と鳥」で始まるその詩の世界に、僕は読みながら没入してしまった。静かな情景を詠む中に、少しずつ作者の胸の高まりが溢れ出てくるようで、とても見過ごすことのできない一編の詩だった。読み終えて席に座った直後に、近くに座っている友人から「入り込んでたね~」と冷やかされたような気もする。

 しばらくして、学校帰りに立ち寄った本屋で、当時角川文庫から出ていた「立原道造詩集」を購入し、その人物と詩の世界を知ることになる。1914年生まれの立原道造は、東京帝国大学建築学科を卒業した新進気鋭の建築家だったが、建築の世界だけでなく、中学時代より入り込んでいた詩歌の世界でも頭角を現し、在学中から注目を集めるようになっていた。バリバリの理系人間でありながら、根っからの文学少年。卒業後は建築事務所に勤めながら詩集を刊行するも、その2年後、結核のため、24歳という若さでこの世を去る。建築の世界、詩の世界どちらにおいても将来を嘱望されていた夭折の天才だったのだ。

 そんな彼が最も愛した芸術は音楽であり、それは彼の詩の世界にも大きく影響を与えている。彼が自身の作品において捉えようとしたのは、その内容よりも、一編の詩の中に響く音楽的効果であって、だからこそ流れるように流麗で、声に出すと、その言葉が前後にちりばめられた他の言葉と呼応して、空間的な広がりを持つようにすら感じてしまう。

 彼の愛した軽井沢の自然の中で、自由に詠んだ感のあるその詩も、実はヨーロッパの詩の定形である4-4-3-3の14行からなる「ソネット形式」の枠組みで書かれているものが多い。彼は、これは音楽におけるソナチネ(小ソナタ)形式に対応するものであると考え、第一詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」では、大きな3部構成の第1部と第3部にSONATINE No.1,とNo.2というタイトルをつけている。また、この3部構成自体も、音楽のソナタ形式に倣っているかのようでもある。

 そうした枠組みを敢えて設定し、その中で選ばれた言葉と、計算しつくされた構造は、建築家としての視点につながるものがあるような気もする。しかし、それを決して感じさせないのは、彼特有のやさしい言葉や表現が、あくまでも自然に読み手に寄り添うからなのだろう。

 自らの内に小さな爆弾を抱え込み、いつ果てるともわからない毎日を送りながら紡いだ言葉からは、だからこそ持つことのできる自然に対する視線やその裏にある詩情を感じることができる。平易な表現と口語体はどこまでもここちよく響きながら、その表現の鮮やかさにはっとさせられたり、その言葉のはかなさに、とんとんと打たれたりもする。五感をフルに働かせて詠まれた言葉の影に、思いがけず諦念や寂寥の断片を垣間見て、しんとしてしまうこともあるのだ。

 高校時代に購入した角川文庫版の「立原道造詩集」は、大学の卒業時に実家に送り返した本を詰め込んだたくさんの段ボール箱とともに何処かに行ってしまい、僕の手元に戻ることはなかった。いつの間にかそんなことも遠い昔の話として忘れかけていた数年前、実家の本棚に高校時代に一冊ずつ購入していった集英社の「日本の詩」全28巻が並んでいることに気付き持ち帰ってきた。その中に懐かしい立原道造の巻もあり、時折ぱらぱらと眺めていたのだ。そういう経緯もあって突然思い出したのかもしれない。一陣の風が運んでくれた、海の日のプレゼントだった。

 

 さて、今日の音楽は、小ソナタ形式にこだわった彼の詩にちなんで、僕の大好きな、J.S.Bachのソナタ集にしよう。立原道造も、恐らく蓄音機で聴いたのだろうと思いたい音楽...まずは思い出深い、『6つのトリオ・ソナタ BWV525~530』 だ。

 ここに紹介する、The King’s Consortの演奏は、元々オルガン曲として残っているトリオ・ソナタを、バッハの時代にあったと思われる室内楽の形で復元したものであり、オーボエオーボエ・ダ・モーレを中心に演奏されるアンサンブルは、実に完成された素晴らしいものになっていて、この地味なトリオ・ソナタに新しい息吹を与えてくれている。

 この中の「Sonata in D minor(BWV527)」と「Sonata in E minor(BWV528)」は、かつて演奏したことがある。特に後者のBWV528は、今でも練習から本番までの細部を思い出すほどだ。もう20年以上前の話だが、確か本番は宝塚のベガホール。パイプオルガンも備えた中規模のホールで、この曲をハープシコード、バイオリン、ビオラ、チェロの4人で演奏した。1楽章、2楽章と気持ちよく進んだが、3楽章のテンポは元々少し早めに設定していて、結構苦労した記憶がある。しかし、僕はこの曲で、トリオ・ソナタ形式の演奏の楽しさに俄然目覚めた。心に残る演奏だった。

  (どちらも、The King’s Consort の演奏ではありませんが・・)

 もう一枚、ひょっとして際物と思いきや、予想以上に素晴らしかったこのアルバムも紹介しておこう。ミカラ・ペトリ&キース・ジャレットの 『バッハ:リコーダーソナタ集(BWV1030~1035)』 だ。

 この6つのソナタは、フラウト・トラヴェルソのために書かれたソナタだが、これをミカラ・ペトリがリコーダーで熱演し、キース・ジャレットハープシコードで応える。リコーダーって、小学校の音楽で使ったあれ?なんて馬鹿にしてはいけない。このバロック時代におけるリコーダーの繊細で歯切れのいい演奏を聴けば、フルートなどの現代楽器では表現できない領域があることを教えてくれる。ここでのミカラ・ペトリの演奏は、クラシックの分野でもその真価を発揮するキース・ジャレットハープシコードに触発され、実に生き生きとした魅力溢れる世界を紡ぎだしている。バロック音楽という即興的要素の少なからず入った世界での音楽的対話...う~ん、まさにインタープレイだ。

 

 バッハのソナタ集を聴きながら立原道造の詩集を読んでいると、ふと以前、東京に立原道造記念館があるという話を、何処かで読んだことを思い出した。数年前に再び読み始めてから、機会があれば訪ねてみたいと思っていたのだが、調べてみると残念なことに昨年閉館したとのこと。2年後に生誕100年、没後75年となる立原道造の詩の世界は、今や時代の流れの中で忘れ去られるだけなのかもしれないけれど...それは寂しいことだ。今のような時代だからこそ、こういう世界をかみしめてみるべきだ、とも思うんだけど...

 高校時代にかなり読んでいたはずなので、恐らく僕の文章も多少なりとも影響を受けているのだろう。なるだけ平易な言葉で、流れるように響かせたい。その発想はひょっとしたらこのあたりから出ているのかもしれない。本当は「思い立ったが吉日」、ということで来月の休暇には彼の好きだった信州へ...なんてことになればよかったんだけど、今回はスケジュールの関係でそうも行かない。せめてあの頃のように、改めてしっかり読み込んでみようかな。案外、新しい発見が待ってるかも知れないね。

 

<追記>

 「風に寄せて」のタイトルがついた彼の詩は確か3種類あります。情景は類似しているので、習作に近かったのかもしれません。その中でも、僕は冒頭の一節で始まる作品が好きです。...そうそう、このあたり梅雨は海の日の翌日に、あっさり明けてしまいました。暑い!

 

 

<関連アルバム&Book>

 

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