Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

エディ・コスタの思い

 サッカーではなくて、野球の試合だったような気がする。恐らく前回のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)だったと思うんだけど、記憶は定かでない。観客席で観戦する子供達の集団を映し出した映像に、アナウンサーが「この子供たちは、エディ・コスタ交通遺児基金により、招待されています」というようなことを、ほとんど付け足しのように紹介した。

 何でそんな些細なことを覚えているのかというと、エディ・コスタという名前にハッとしたからだった。実はそれ以前にも、一度同様のシチュエーションでこの名前を耳にしたことがあったのだが、その名前から僕が思い浮かべたのは、ちょうど今から50年前、1962年の夏、31歳の若さでこの世を去ったジャズピアニスト、エディ・コスタだった。いや、ジャズピアニストというよりも、ジャズバイブ奏者という方がピンと来るかもしれない。同姓同名の人は世の中にたくさんいるんだろうけど、とても場違いなところでその名前を聞いたことがずっと頭に残っていた。

 活動期間も短く、それほどメジャーなミュージシャンとは言えないので、名前を聞いてもその演奏を思い浮かべる人は少ないかもしれない。確か、共同名義を入れてもオリジナルのリーダーアルバムは4枚しかないはずだ。

 僕が初めてエディ・コスタの演奏を意識したのは、ミシェル・ルグランの名盤 『ルグラン・ジャズ』 で聴いたバイブの演奏だったように思う。マイルス・デイビスジョン・コルトレーンビル・エヴァンスなど、当時の最前線のジャズマンたちに混じって、ミシェル・ルグランの指揮するモダン・ジャズ・オーケストラの一角をきっちり渋く担っていた彼のバイブ演奏は、なかなか印象的だった。その後、デビュー盤 『エディ・コスタクインテット』 でトランペットのアート・ファーマーやアルト・サックスのフィル・ウッズを相手にバイブやピアノの演奏を繰り広げるのを聴いたり、ギタリスト、タル・ファーロウのアルバムでのピアノ演奏を聴いたりしたが、バイブもピアノも非常にオーソドックスで端正、どちらかといえば渋くて上手いサイドマン、という印象だった。

 ところが、もう10年以上前に、あるきっかけからエディ・コスタのリーダー作であるピアノ・トリオ盤 『ハウス・オブ・ブルーライツ』 を誰の作品か意識しないままに聴いて、あまりにびっくりしてしまったのだ。このアルバムは元々マイナー・レーベルでの発売だったがゆえに、レコード盤では幻の名盤と言われ入手困難だったらしく、その売り文句に乗って初CD化の時にリーダー名を意識せず入手したものだった。演奏を聴き、これはいったい誰?とその名前を何度も確認した。そのアルバムの演奏は、僕の中にあったエディ・コスタの印象を根底から覆したのだ。

 冒頭のタイトル曲「The House of Blue Lights」にしても、比較的おとなしめの5曲目「When I Fall in Love」にしてもその印象は変わらない。その全編に拡がるブルージーな感覚、時に低域を叩きつけるようにゴリゴリ鳴らし、メロディーをパーカッシブにはじいたと思うと優しく撫で、とにかく自由で表情豊かで、その陰影に富んだ斬新なピアノ演奏は鮮烈だった。思わず録音年を確認した。1959年1月、ビル・エヴァンスが最初のレギュラー・トリオでピアノトリオの定型を確立する直前の話で、ドラムスは同じポール・モチアンだったのだ。

 サイドマンとして器用で端正なピアノを弾いていた彼が、この特徴的なアルバムに至った経緯を知りたい。何より、もっとエディ・コスタのピアノ演奏を聴いてみたいとその時思ったのだが、それは叶わなかった。このアルバムがジャズ・ピアニスト、エディ・コスタのリーダー作としては最初で最後、たった一枚のアルバムだったのだ。

 そうそう、思い出した。僕がこのアルバムを聴いたほぼ同時期に、当時日本のジャズ界を賑わしたピアニスト・大西順子のライブ盤 『ビレッジ・バンガード2』 の冒頭がやはりこの「The House of Blue Lights」で、その両者の類似点に、そうだったのか、大西順子エディ・コスタのピアノに影響受けていたんだ...なんて思った記憶がある。真相は定かではないが...

 ところで、何故こんな話を思い出したのかというと、ずっと聴いてみたいと思っていた、エディ・コスタのバイブ奏者としての唯一のリーダー・アルバム 『Guys and Dolls Like Vibes』 を、先日タワーレコードで発見、ようやく入手することができたからだった。このアルバムは、彼がリーダーとしてバイブのみをカルテット演奏したもので、録音は先に紹介したピアノでのリーダー作の一年前、1958年1月だった。そして何よりもこのアルバムは、サイドを担ったのがスコット・ラファロ加入前のビル・エヴァンス・トリオである、というところからも、ずっと気になっていたアルバムだったのだ。

 この中でのエディ・コスタは、非常にポピュラリティー溢れる生き生きとした演奏を繰り広げているのだが、何よりもバックを担うビル・エヴァンスの演奏が、最も上昇気流に乗っていたころのものであり、何気ない演奏の中にも既にその特徴が現れていて、とても魅力的な作品になっている。僕はこのアルバムを聴いていて、実に長年の疑問が解けたような気がした。

 当時のジャズ雑誌「ダウンビート」で、エディ・コスタは1957年の新人賞をピアノ部門とバイブ部門で獲っている。実はビル・エヴァンスはその翌年、1958年のピアノ部門の新人賞だったのだ。エディ・コスタ自身はピアニストとして認められることをずっと望んでいたらしいが、演奏者の少ないバイブを、ほとんど初見で自由自在に操ることができたので、どちらかといえばそちらで重宝されたようだ。そんな彼に巡ってきたリーダー作の話もバイブでのものだった。恐らく競演はレコード会社から、売り出し中のビル・エヴァンスを指名されたのだろう。元々ピアノの実力も半端でないエディ・コスタビル・エヴァンスの目を見張るような演奏の前に大いに刺激を受けたはずだ。すごい新人が現れた、と恐らく焦りにも似た気持ちを持ったのではないだろうか。

 そんな折、ピアノトリオでのリーダー作の話が来てエディ・コスタは考えたに違いない。あのビル・エヴァンスに対抗しうる自分の個性はいったい何なのだろうか。自分自身を最も発揮できる方向性とは...それがあの個性的な演奏に繋がったのではないだろうか。その一年後に録音されたピアニスト、エディ・コスタの先に紹介した名盤 『ハウス・オブ・ブルーライツ』 はビル・エヴァンスを意識して行き着いた結果であり、ビルへの挑戦状だった。う~ん、そこまで言うと、言い過ぎかな。でもそれくらいの気概で臨んだアルバムであると思えば、確かにそれ相応の気合をそのアルバムに感じることができるのだから、まんざら外れではないかもしれない。

 

 この2枚のエディ・コスタのリーダー・アルバムの後も、やはり彼に来る仕事はバイブでのものがメインだったらしい。多くは商業的なもの、例えば映画音楽や放送音楽のようなものだったが、来る仕事は断ることなく何でも引き受けたという。彼には4人の子供がいて、奥さんとは新婚旅行も棚上げにするほど、昼夜を問わず多忙だったらしい。友人も心配して助言するくらい、仕事を選ばず、身を粉にして働いたという。そんな中でも、彼のピアノへの情熱は消えなかった。時にサイドマンとして参加するピアノの仕事は精一杯こなしていた。

 そういう中で、遂に彼のピアノを大きくフィーチャーするアルバムの話が舞い込んできた。それは仕事も軌道に乗ってきて、経済的にもようやく先の目処がつき、棚上げしていた新婚旅行を計画している最中だった。仕事のやりくりをして一週間の休みを取ろうとしていたところだったので、そのレコーディングの打ち合わせは、無理を言ってバミューダへの新婚旅行の後に延期した。

 そして新婚旅行直前、悲劇は訪れたのだ。1962年7月28日深夜、ニューヨークのウェスト・サイド・ハイウェイで彼は運転を誤り、その短い生涯を閉じた。31歳だった。

 

 冒頭に書いたある国際試合で聞いたアナウンス。その後、インターネットで調べてみても、それにつながる情報は一切無かったのだが、今回いろいろ調べていて、アルバム「ハウス・オブ・ブルーライツ」のライナーノーツにジャズ評論家の故・油井正一氏が寄せている文章を見つけた。その中に、多忙なエディ・コスタの趣味はスポーツで、特にニューヨーク・ジャイアンツの大ファンだったらしいとあった。4人の子供たちとは、よく野球をして遊んでいたという。そしてその最後にひっそりと付け加えてある一文に目を見張った。

「彼の死後、妻のジェニーは幾分のたくわえを“子供たちのためのフットボール、ベースボール見学基金”として、公共機関に寄付したのであった。」

 もうひとつの長年の疑問が、氷解した瞬間だった。

 

 

<関連アルバム>

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