先週の日曜日、こればかりは見逃すわけにはいかないと、何とか無理やり隙間をつくって公開されたばかりの映画「情熱のピアニズム」を観に行った。骨形成不全症という病気のためにほとんど歩くこともできず、成人してからも身長は1メートルほどしかなかったが、その桁外れの音楽性と誰からも愛される人間性、尽きることのない好奇心で36年間の短い生涯を全力で駆け抜けたジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニの数奇な人生をたどったドキュメンタリー映画である。
半年ほど前に話を聞いたときからずっと待ち望んでいた映画だったが、封切りの少し前まで東京と名古屋の2館での上映しか決まっておらず、何とか出張を画策してでも観にいこうか、なんて思ったほどだった。先月末、思い出して再度調べたところ、大阪でもテアトル梅田で上映が決まったのを知り、先週になってようやく観ることができた。
その小さな全身から溢れ出る才能。特徴ともいえる強靭なタッチと、正確かつ縦横無尽な演奏から生まれる、ニゴリのないクリアな音。情熱がほとばしるような生命力、そして何処か翳りを残す叙情性を感じる音楽が映画の全編を包む。
そこに映し出されたミシェルはとても前向きで魅力的だ。そして常に生き急いでいる。僕には時間がない、とつぶやく。20歳まで生きられるかどうかわからないと言われていた彼は、人より短いであろう生涯の中で、あらゆる自らの好奇心を貪欲に満たそうとする。そのパワーは並大抵ではない。健常者が舌を巻くほどだ。通常であれば、僕たちの目からは十分にぶっ飛んでいる錚々たるミュージシャン達がたくさんの証言を寄せているが、ミシェルの前では何処か小さく見えるのだから不思議だ。
女性遍歴もすごい。彼は25歳までは松葉杖を使うこともできず、誰かに抱きかかえられて移動していたが、その相手は選んでいたようだ。自ら口説き、恋におち、共に生活をし、ある時期になると変化を求め離れていく。常に女性問題を抱えていたのだろうが、インタビューに応じている彼女たちは、笑顔でそれを話せるのだから驚きだ。彼は全ての回りの人たちに、今も愛されているのだ。
僕とほぼ同世代のミシェル・ペトルチアーニだが、僕が初めて彼の名前を意識した演奏がある。それは、1990年、当時「歌うヴィーナスの神話」というキャッチフレーズで東芝EMIレコードの"somethin'else"レーベルから日本デビューを果たしたラシェル・フェレルのアルバム 『ラシェル・フェレル・デビュー!』 での一曲だった。
ラシェルのバックを務めるピアノトリオのメンバーは、名前を聞いてもピンとこない、僕の知らないメンバーだった。まあ、日本盤のデビューアルバムなのだからそんなものか、なんて思ったのだが、最後に一曲、明らかに他の演奏と全てが違うライブ音源「枯葉」が入っていて、思わず聞き惚れてしまった。ボーナストラックというよりも「目玉」というべきこの演奏は、なんともすごい!慌ててクレジットを見て驚いた。この曲だけは、ピアノがミシェル・ペトルチアーニ、サックスがウェイン・ショーター、ベースがスタンリー・クラーク、ドラムスがレニー・ホワイトなどなど。まあ当時の売れっ子、オールスターキャストであり、ライブ時点ではデビュー前の歌手のバックとしてはあまりにすごい面子で、その演奏がもう抜群。そのときのピアノの印象は、しっかりと僕の中に焼きついた。
それからしばらくして遡って購入したのが、彼の初リーダーアルバム 『MICHELLE PETRUCCIANI』 である。1981年、若干18歳のときの作品だが、既に彼の特徴である強いタッチとクリアな音、充実した音圧感は出来上がっていて、素晴らしい音楽を披露している。
一曲目の彼自身の曲「Hommage A Enelram Atsenig」も、2曲目のマンシーニの「酒とばらの日々」も、さらに後に続くどの曲にも、驚かされたものだ。完成されすぎている。この音楽のどこにハンディキャップを感じる部分があるのだろう。そんな認識は全く必要ない。それどころか、僕と同世代のどのジャズ・ミュージシャンよりもはるかに高みに上っている。そして何よりも明るく元気になれる音楽だ。そのときの印象でずっとこの映画まで来たのだった。
映画では、どうしてピアノなのか、誰の影響を受けたのか、散々聞かれ、言いよどむ場面が何度かあった。答えはいろいろだったが、ほんの一瞬、うつろな表情で「ビル・エヴァンス」とつぶやく場面が出てくる。僕は初めてこのアルバムを聴いたとき、明らかにビルの影響が大きいと思った。きっと彼の中でのアイドルだったのだろう。しかし、初期のごろ、散々回りからその点を指摘され、素直にそうは答えられなくなったのではないだろうか。その後の彼は、まさに彼でしかありえないスタイルの確立がそのテーマだっただろうから...それにしても、このアルバム、ビルの死と時期を同じくして録音されリリースされていることにも、因縁めいたものを感じる。
この直後にアメリカに渡り13年間。最初は西海岸、そしてニューヨークへ出て、フランス人として初めてブルーノート・レーベルと契約することになる。この時代のアルバムは、次々とビッグネームと競演を果たし、人生を謳歌すると同時にひたすらジャズを楽しんだ時代のものだ。しかし、もう一枚をあえて挙げるなら、晩年ヨーロッパに戻り充実した音楽を確立し、1997年、最後のトリオでの最後の正式アルバムとしてリリースされたライブ盤 『Trio in Tokyo』 だ。
これは、最晩年のミシェルが最も信頼を寄せたドラムスのスティーブ・ガッド、ベースのアンソニー・ジャクソンと組んだスーパー・トリオによる、1997年11月に行った東京ブルーノートでのライブ盤だ。
映画でも流れていた2曲目の「September Second」では、いつも陽気な彼の心の奥底にある憂いをより強く感じるし、3曲目の「Home」では、もう一方の心の安寧を感じる演奏でもある。どの曲も、三位一体での素晴らしい演奏であり、思わず脱帽すると共に、このライブを生で観賞したであろう人たちに、羨望の思いを感じてしまうのだ。
最晩年、進行する病と戦い、人より早く進む老化とも戦い、心肺の機能低下とも戦いつつ、強いタッチがゆえにすぐに骨折する腕をかばいながらも、過酷なスケジュールをこなしていた。友人たちも忠告したが、彼にはもう時間がない、という思いしかなかったのだろう。1998年の年末、遠征先のニューヨークで体調が悪化して肺炎になり、翌年1月6日に亡くなった。36歳だった。
今回、時系列で様々なアルバムを聴く中で、彼の生み出す音楽の意識やレベルは、その最晩年に向かってどんどん高まっていくことを実感した。もう少し長く生きていれば、どんなに素晴らしい音楽を生み出してくれていたのだろう...
彼は今、パリのペール・ラシェーズ墓地で、フレデリック・ショパンと並んで、静かに眠っている。
<追記>
なんと、ラシェル・フェレルが「枯葉」を歌う、件のライブ映像がありました!!今回わかったのですが、この演奏はマンハッタンプロジェクトという一夜限りのライブプロジェクトに、ゲストとして新人ラシェル・フェレルが一曲のみ登場したものでした。ラシェルも並外れた新人だったのですね~。
☆ Link:Autumn Leaves / Rachelle Ferrell
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