春を感じさせてくれるもの。その一つに、明るく響く弦楽合奏の音がある。誰もがそういう気分になるのかどうかはわからない。ただ僕自身のその感覚には、思い当たる記憶がある。
学生時代、3回生の3月末にチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」を、4回生の3月末にはドボルザークの「弦楽セレナーデ」を演奏した記憶だ。どちらもその演奏会のためだけに、近くのK大のOBを中心に結成された小さなオーケストラでの演奏だったが、特に4回生の時は確か卒業式の翌日が本番で、その二日後には引越しの荷物を送り出し、チェロだけを抱えて福岡の地を後にした。どちらもアマチュアにとっては難曲で、演奏会までの練習も思い出深いが、その音は、桜の季節とも重なる期待と不安、別れと出会いの記憶と交じり合い、春を想起させる導線になっているのだろう。
思えば、僕の大好きなあの曲もまた、弦楽合奏に乗せた優しい声で、しばしば春を感じさせてくれた。初めて出会って20年近くになるだろうか。何度聴いても胸がいっぱいになる、僕にとっては宝物のような曲。弦楽合奏と言ってもクラシックの曲ではない。ボサノバ以降のブラジリアン・ポップを牽引し、70歳を超えた今なおその中心で活躍する偉大なミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾが、1994年にリリースしたアルバム 『粋な男(Fina Estampa)』 に収録されている「ドレス一枚と愛一つ(Un Vestido Y Un Amor)」だ。
カエターノ・ヴェローゾの音楽を認識したのは1997年、当時リリースされたばかりの彼のアルバム 『リーヴロ』 が音楽雑誌で取り上げられているのを読んで興味を持ってからだった。ブラジル音楽といえばボサノバの名盤くらいしか聴いたことがなかった頃だが、ちょうど仕事で新しい音をひたすら求めていた時期で、米・英発の音楽だけでは行き着けない領域にこそ、斬新で新鮮な何かがあるような気がしていた。
『リーヴロ』 の帯には「デビュー30年」とあって、カエターノも既に50代半ばだったが、そのアルバムに詰まった音楽の放つ香りは鮮やかで、リズムセクションにはブラジルの伝統楽器をちりばめながらも、先進的で斬新な音や音楽の要素が随所に盛り込まれていた。さらに、現在でもポピュラー・ミュージックの世界で最高のチェロ奏者であり、アレンジャーでもあるジャキス・モレレンバウムのプロデュースによる素晴らしいオーケストレーション。その上に、カエターノの優しく甘い声が乗る。もう僕は瞬く間にこの稀代のクリエーターとその音楽の虜になり、すぐにそこから遡って3年前に発売されていたアルバム 『粋な男』 に行き着いたのだった。
『粋な男』 は、今にして思えばカエターノの企画盤ともいえる。オリジナルメインで数々の作品をリリースしてきた彼のアルバムの中では異質の、全曲スペイン語で歌われるラテン懐メロの集大成なのだ。とは言っても、日本人の僕にとってはほとんど知らない音楽であり、カエターノの優しい声と、ジャキスの美しいオーケストレーションによって彩られた、立派なオリジナルアルバムだと感じていた。
これらの曲はカエターノの子供時代、まだブラジル音楽がラテン音楽そのものだった頃、ラジオからよく流れていたのだろう。ブラジル音楽がラテン音楽から離れ始めたのは、恐らくはボサノバからであり、その後MPB(ブラジリアン・ポップミュージック)が広がって以降は、独自の進化を遂げていった。そして、その先導役こそがカエターノ本人だったのである。
このアルバムでカエターノは、アルゼンチンやキューバ、メキシコ、ペルー、プエルトリコなどの、20世紀前半のラテン音楽の定番をバリエーション豊かに選んでいるが、その中に1曲、新しい曲を忍ばせていた。その曲こそが、「ドレス一枚と愛ひとつ」で、このアルバムの2年前にアルゼンチンのロック系シンガーソングライター、フィト・パエスがヒットさせた曲だったのだ。当時アルゼンチンローカルのこの曲の永遠性をカエターノは見逃さなかったのだろう。確かに、このアルバムの中にあっても、何の違和感も無い。むしろ、ジャキス・モレレンバウムの構築した弦楽によるオーケストレーションは、カエターノの表現するロマンティシズムをしっかりと支え、本アルバム屈指の音楽に仕上がっている。
タイトルがまたいい。スペイン語なので、歌詞の内容はよくわからないが、インナーブックに収められた日本語訳は、遠く離れた異国の地(恐らくスペインだろう)で出会った女性に向けて語られている。その内容は、多分に内省的で、少し感傷的だ。終盤、タイトルに繋がる「君の荷物は、ドレス一枚と愛ひとつ」という文言が出てくるが、これはその女性に求める物。ただそれだけでいい、という思いなのだろう。
この曲は、カエターノの選曲によってグローバルに認知された。そして、そのときから20年近くたった今も、世界中の多くの人に愛され続けている。
春を感じさせてくれるもの。明るく響く弦楽合奏に乗った「ドレス一枚と愛ひとつ」。何日かぶりに降り注ぐあたたかい陽射し。カップに注がれたアールグレイの香り。何気ない春の休日、時はゆったり、流れていく。
<追記>
「ドレス一枚と愛ひとつ」の作者のフィト・パエズはアルゼンチン・ロックの3大スターの一人ですが、カエターノより20歳近く若く、この曲がヒットした当時は、まだ20代でした。その後、映画監督や俳優もされたようですが、50歳を超えた今も、彼の本国での人気は衰えていないようです。Youtubeで見つけた2年ほど前のリサイタル映像でのこの曲を観れば、その人気の程がわかります。この曲を、客席のお客さんは、最初から当たり前のように一緒に歌っています。感動的です。(ほかのライブ映像でもそうでした。愛されている曲なのでしょうね。)
フィト・パエズが1993年にリリースした、この曲の入ったアルバムと共に、映像も紹介しておきます。
<関連アルバム>
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