Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

長い休日

 久しく書いていなかった。いや、書けなくなっていたというのが正確だろうか。気がつけばそこから一年近くたっていた。

 先日思い立って、これまで書いてきた内容を、最初からぱらぱらと追ってみた。だんだん先細りしてはいるものの、毎月必ずアップしてきた文章は膨大だった。紹介した愛聴盤も300枚近くはあるだろうし、楽曲はさらに多いはずだ。区切りの年齢を目前に、様々な思いの中で書き始めた文章には、その時々の感情がベールに包まれ、そっと置かれていた。そこで紹介した音楽も含め、その文面を振り返ることで、表現の外にある当時の思いが手繰り寄せられ、この5年間の自らの意識の変遷を思いがけず認識した。

 何故書けなくなったのか、よくわからなかった。でも今ならその背景にあった複合的な理由を読み解くことができる。とてもパーソナルことなのだが...

 やめてしまうことは簡単だったが、どこかで再開したいと思っていたのだろう。頭の中には、再開時に紹介したい音楽が溢れ始めていた。その中の一つが、今日のアルバムだ。タイトルは「日曜日」。休日の終盤のけだるさを漂わせつつ、その終わりを惜しむかのようなダウナーな雰囲気のアルバムであり、長いお休みを抜けるときの最初の一枚はこれかな、と何となく思っていた。でも、そうは思っても、何も前には進まなかったんだけど...

 

 そんなことも忘れていた先週の土曜日。午前中、何気なくリオ五輪の開会式を眺めていた。とは言っても見始めたときには既に選手入場が始まっていたので、開会式の前半は完全に見逃していたようだ。選手入場も終わって、聖火ランナーが現れる前にリオらしくサンバが始まったのだが、そこでなんと、あのカエターノ・ヴェローゾが歌っているではないか。しかも歌姫アニッタを挟んで、盟友ジルベルト・ジルと一緒に、である。

 白髪のカエターノも、既に74歳。それはそれでびっくりするが、こういう場に登場するということにも少し驚いた。リオといえば、やはりジョビン。トム・ジョビンアントニオ・カルロス・ジョビン)がフィーチャーされた出し物があるのかな、とは思っていたんだけど。

 広大な会場の円いステージの上で、懸命に歌うカエターノを見ていて、なんだか少しうれしくなった。そして、前述のアルバム 『Domingo』 (ポルトガル語で「日曜日」の意味)を引っ張り出し、その奇跡のような音楽をしばらくぶりにじっくり聴いた。1967年にリリースされ、12曲がコンパクトに納まったこの一枚は、いい気分で聴いているとあっという間に終わる。最後の曲のあと、空白の時間の中で、ああ、もう終わってしまった、と思った時、それこそが「日曜日」の持つ寂しさに近い気がした。そしてその瞬間、何かがつながった。

  アルバム 『Domingo』 は、25歳のカエターノ・ヴェローゾと22歳のガル・コスタのデュオ・アルバムであり、二人のデビュー作でもある。初めてこのアルバムに出会った時、その意外な内容に驚いた記憶がある。若い頃のカエターノ・ヴェローゾと言えば、サイケデリックで前衛的で、既成概念をぶち壊す尖がった才人という印象が強かったので、そのアルバムから立ち上るやさしい雰囲気が、あまりに予想外だったのだ。

 当時のブラジルは、クーデターによって軍事独裁政権に突入していた頃であり、カエターノ・ヴェローゾは1968年にリリースした自らの初のソロアルバムで「トロピカリア」と呼ばれる音楽ムーブメントを提唱、ビートルズの先進性に触発され、ブラジルの伝統音楽の再評価と共に、ロックをベースにしたブラジル・ポピュラー音楽の新たな進化をぶち上げた。その流れは様々な芸術活動や言論活動とも結びついて軍事政権下での火種となり、その年末には盟友ジルベルト・ジルと共に逮捕され、翌年二人はロンドンに亡命する。1972年に帰国して以降は、常に国際基準の新しいブラジル音楽を発信する存在として、ブラジルのポピュラー音楽界を引っ張ってきたのだろう。

 そんな流れと一線を画すデビューアルバム 『Domingo』 は、意外にもとてもオーソドックスなボサノヴァアルバムのように見える。しかし考えてみれば、1967年にはもうブラジル本国ではボサノヴァはほとんど廃れていた頃で、ブラジルを離れ、欧米でイージーリスニングやジャズと結びついて発展していた。しかし、彼が信奉していたのは頑固なまでに自分の音楽を貫くジョアン・ジルベルトであり、欧米の安易な流れに迎合するボサノヴァの変節を許せなかったようだ。

 即ち、このアルバムの音楽はボサノヴァの原点回帰、ジョアンが生み出した頃の心を取り戻すボサノヴァを実現して見せたアルバムでありながら、その直後に自らブラジルのポピュラー音楽界に大激震を起こすことを思えば、まさにリアルタイムな流れでの最後のボサノヴァ・アルバムだった、と言うことができる。

 その一曲目、「コラサォン・ヴァガブンド」は、それにふさわしいボサノヴァの名曲であり、僕の大好きな曲だ。

 ガル・コスタカエターノ・ヴェローゾが重なることなくワンコーラスずつ囁くように歌うこの曲は、何故か妙になまめかしい。この音楽を、「情事の後のけだるい雰囲気」とはよく言ったものだが、明らかにジョアン・ジルベルトを意識したような音楽に、思わずにんまりしてしまう。

 もう一つの特徴は、「アヴァランダード」や「カンデイアス」、「ケン・ミ・デーラ」などで感じられる、まるで古い欧州映画でも見ているような音楽とその表現である。それが、ガルやカエターノの声とマッチして、とてもいい雰囲気を作っているのだ。

 二人の名義のアルバムなのに、決して二人の声は重ならないし交わらない。それが、最後の曲「サベレー」で初めて、重なるのだが、そのハッピーな感じも、やはりうんと控えめである。

 ジャケットには、発表当時「ガル・コスタによるカエターノ曲集」と書かれていたそうだが、このアルバムを聴いたトム・ジョビンはカエターノに対し、「君はコンポーザーとしてではなく、歌手として歌っているじゃないか」と絶賛したらしい。それは、恐らくカエターノ自身の意識が大きく変わった瞬間だったのだろう。

 当時カエターノ・ヴェローゾはこのアルバムのことを、「ノスタルジックにボサノヴァを考えているのではなく、未来への展望として考えている」と語ったという。彼にとっては、当時のこのアルバムでの表現も、その後のトロピカリアの展開も、同じ方向を見据えたものだったということなのだろう。

 オリンピックの開会式で目にした映像から、僕の中で何かが動き出した。止まっていた時計のネジを再び巻くように、止まっていた日付を更新しよう。長い休日は終わりを迎えたようだ。新しい一歩が、また今日から始まる。

 

<追記>

 ジョアン・ジルベルトを熱烈に信奉していたカエターノ・ヴェローゾは、それから33年後の2000年に、ジョアンの新しいアルバムをプロデュースしています。そのアルバム 『声とギター』 は、ジョアン・ジルベルトがギター一本で弾き語るアルバムで、現時点でジョアンの最も新しいスタジオ録音盤です。

 ジョアンはその中で、アルバム 『Domingo』 の一曲目、若きカエターノ・ヴェローゾが最初に世に出した「コラサォン・ヴァガブンド」を演奏しています。譜割をジョアン流に変えた変幻自在の演奏は、自由溢れる音楽に仕上がっていますが、これはカエターノ・ヴェローゾにとって、若い頃に見た夢の実現だったのかも知れません。

 

 

<関連アルバム>

 

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