Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

ジョアン・ジルベルトを探して

 もう一か月ほど前のことになる。9月の最後の日曜日、封切られたばかりの映画「ジョアン・ジルベルトを探して」を観に行った。春先に雑誌で知って以来、ぜひ封切を観たいと思っていたこの映画のタイトルは、ボサノヴァの父とも呼ばれるジョアン・ジルベルトの存在が、生きながらにして既に伝説と化していることを物語っていた。

 いくら伝説的とは言っても、ジョアン・ジルベルトがその映画の撮影時点でリオの街に暮らしていたことは間違いない。2008年のボサノヴァ誕生50周年記念ライブを最後に、公の場に姿を現していないとは言え、健康上の問題で人前に出られないというわけでもなさそうな彼を、ただ「探す」ことで成立するドキュメンタリーというのも、ある意味すごい。

 僕も大好きなボサノヴァという音楽は、その原点をぶれずに守り続けるジョアン・ジルベルトが存在しているからこそ、その展開も含めここまで拡がることができたのだと思う。そんな彼の存在をただただ確かめたかったのだ。

 ネットで見た予告編には、ストーリーの骨格となる一冊の本が紹介されていた。ドイツ人作家マーク・フィッシャーの著した「オバララ ~ ジョアン・ジルベルトを探して」だ。マーク・フィッシャーがジョアンの音楽に出会ったのは日本で友人の部屋を訪ねた時だったという。初めて耳にしたのは、ジョアン・ジルベルトのデビューアルバム 『Chega de Saudade (想いあふれて)』 だ。アントニオ・カルロス・ジョビンと詩人ヴィニシウス・ヂ・モライスの共作であるこのタイトル曲こそが、ボサノヴァ誕生の曲だといわれている。この二人の曲にジョアンの声とギターがあってこそのボサノヴァ誕生だったのである。

 フィッシャーの本のタイトルにもある「オバララ(Ho-ba-la-la)」は、そのアルバムの中でも数少ないジョアン自身の曲だ。フィッシャーは特にこの曲に心惹かれていたようだ。

 フランス人監督ジョルジュ・ガショは、2011年に発刊されたこの本に出会い、心を動かされる。その本の中でフィッシャーは、謎に満ちたジョアン・ジルベルトを探し出そうと、何度もリオの街を訪れる。ジョアンへの取材に向けて入念に準備し、手助けをしてくれそうな様々な人々、たくさんのミュージシャンにもコンタクトを取り、調査網を広げていく。ジョアンに会って大好きな「Ho-ba-la-la」を歌ってもらいたい。それはまるで、その行為に別の意味を見出している求道者のようですらある。しかし、謎はますます深まるばかりで、結局ジョアンに遭遇することはできなかった。そのことが原因だったのかどうかはわからないが、フィッシャーは事の顛末を記したこの本が出版される1週間前に、40歳という若さで自ら命を絶つ。

 監督のジョルジュ・ガショは、ちょうどフィッシャーがリオで取材をしていた2010年、偶然にも別の音楽映画の取材・撮影で同じリオにいた。同じ時間に同じ通りを歩き、同じミュージシャンと関わっていたことも分かった。そして、彼自身もジョアンに会おうと何度も挑戦していたのだ。二人の道が不思議な形で交わっていたことを知り、その本のフィッシャーの姿に自分自身を見出した彼は、自らフィッシャーの足跡を追いながらその旅を引き継ぎ、ジョアン・ジルベルトを探し始める。

  

 果たして監督のジョルジュ・ガショはジョアンに遭遇することができたのだろうか。確かに僕の興味もそこにあったのかもしれない。しかし、様々な期待をもって公開を待っていた僕たちに届いたのは、上映の詳細日程ではなく、突然の訃報だった。

 -7月6日、ジョアン・ジルベルト氏、リオデジャネイロにて逝去。 -

 あー、ついに・・・という思いと同時に押し寄せる何とも言えない喪失感。ジョビンもモライスも既に鬼籍に入っている今、ボサノヴァは生みの親を全て失ったのだ。もちろん、上映を待ち焦がれていた本作への思いも一層強くなったが、今となっては別の意味合いが生じてくる。ジョアン・ジルベルトはいくら探しても、もういないのである。

 実は昨年リオで行われたプレミア試写会にも出席しこの映画にも再三登場しているジョアンの元妻である歌手のミウシャもまた、昨年末に亡くなっていた。そういう意味では本作は、非常に貴重な記録を残したドキュメンタリー映画になっているのである。

 そういう経緯を経てもなお、美しいリオの街並みとジョアンの歌うボサノヴァの名曲を背景に、少しずつジョアンの影に迫っていくスリリングな展開に、僕はどんどん引き込まれた。監督のジョルジュ・ガショ自身の胸の高鳴りが迫ってくるような映像と、どこか哲学的な香りのする語りを、無垢な観客となって楽しんでいた。そして、この現状における最良の結末に、拍手を送りたい気分になったのだった。

 

 ところで、この映画の中でも少し触れられているが、ジョアン・ジルベルトはもう何十年もリオで隠遁生活を続ける中で、例外的に3度も日本の地を踏み、コンサートを開いている。しかもそのすべては、2000年にリリースされた最後のスタジオ録音盤 『ジョアン 声とギター』 以降のことであり、ジョアンの周辺の人に言わせれば、信じられない奇跡のような事態だったようだ。

 2003年の初来日は、日本の関係者の懸命の努力と情熱により実現したようだが、そこでのコンサートも含め日本での滞在がジョアンの心をがっちりとつかむ。ジョアンにとって日本の観客は、自分の音楽のことを本当に分かってくれる理想の聴衆のように感じたのだろう。そして、自らこの時のコンサートを指定し、ライブ盤としてリリースする許可を出した。2004年にリリースされた最後の公式ライブアルバム 『JOAO GILBERT in Tokyo』 は、この初来日でのコンサートを録音したものである。

  そして今年、公式映像作品としては初めてのブルーレイ・ディスクでのライブ盤として、2006年の最後の来日時のライブを収録した 『Live in Tokyo』 が発売になった。生前にリリースが決まっていて、僕も迷わず入手したのだが、これが図らずも追悼盤となってしまった。

 日本語で「こんばんは」とつぶやき、少しはにかんだ感じで演奏は始まる。アントニオ・カルロス・ジョビンの「Ligia」だ。この時のジョアンは75歳。親指をぴんと伸ばした独特のギター奏法は、まったく衰えていない。心のままに、正確に刻まれるギターと絡む声の味わいも変わらない。

 ジョアンのささやきを決して聞き逃すまいとする観客の息遣いと静寂。曲の切れ間で湧き上がる拍手。所々で長く合間を取る中でその拍手に目を閉じ幸せそうに聞き入るジョアン。11曲目、「O Pato」の途中でメガネがずり落ち曲を中断するハプニングに謝り微笑するジョアン、観客の笑い声と拍手、もう大丈夫とばかりメガネをしっかりかけなおすしぐさをする笑顔のジョアン。2日間の演奏のテイク編集を行っているにもかかわらず、このハプニングテイクをジョアン自身が選んでいるところに、日本での公演の温かい雰囲気そのものをジョアンが受け入れていることを知る。

 「コルコヴァード」や「デサフィナード」、「3月の水」などのジョビンの名曲も演奏されていて、おまけに僕の大好きな「Estate」もしっかり入っている。そして最後にはボサノヴァの始まりの曲「Chega de Saudade」と「イパネマの娘」で終わるという、何とも贅沢な集大成だ。

 

 僕たちはもう、ジョアン・ジルベルトを探し出すことはできない。でもジョアンは最後に、素晴らしい映像と音響で、いつでも会うことができる状況を作ってくれたと思いたい。ただただ感謝しかない。

 ご冥福をお祈りいたします。

 

 

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