Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

行列嫌いだったのが、最近そうでもなくなったって話

行列に並ぶのが嫌いだ。狙って訪れた店でも、数名並んでいるだけでやめようかな、と思ってしまう。待っても10分が限度。そんな感じだった。

先週、休日に梅田に出た際、最近開業した商業施設の中の美味しいと評判の焼き鳥店で、昼飲みでもしようとなった。案の定、並んでる、並んでる。やはり人気店だ。それなのに何の躊躇もなく心軽やかに列の最後尾に並ぶ自分に気付いた。変化の理由は明白。関西万博の洗礼を受けてハードルがうんと下がったのだ。こういうことにも「慣れ」ってあるんだね。

 

5月の連休が明けた頃、春先に仕事の関係で万博チケットをいただいていた事を思い出した。そのままにしていると、夏も終わる頃に「あまり気が進まないけど、さてどうしよう」と逃げ道のない決断を迫られることが目に見えていたので、先手を打って早めに行くことを画策。「梅雨」も「暑さ」も避けるためには5月中に決行しなきゃ、ということで5月末の木曜日に休みを取って行くことにしたのだった。

地下鉄に直結の東ゲートの入場は、平日だというのに既に午前枠は満杯で入場不可。正午以降の入場となった。予約ができるパビリオンもめぼしいところは既にいっぱいで、とにかく行ってから考えるしかなかった。

スムースにいったのは東ゲート前の夢洲駅まで。平日だから案外大丈夫かも、などという淡い期待は、ゲート前の大行列でいきなり吹っ飛ぶことになる。それでも何とか12時過ぎには入場できたものの、そこから30分ほど地図を片手に近場のパビリオン前を行ったり来たりして、ようやく現実が見えてきた。

入れるところから入ろう、などと思いながら回っていても、待ち時間の表示は120分、90分、60分・・・30分以下のところなんて見当たらない。そんなに長い時間並ぶのなんて嫌だ~、などと駄々をこねていると、せっかく来たのにうろうろするだけで、結局どこにも入れないことが分かってくる。

急遽方針変更。とにかくまずは我が同行者(うちの奥さんです)が下調べで「行きたい」とチェックしていたパビリオンに優先順位の高い方から行ってみて、2時間待ち以上のところは諦め、それより短ければ並ぶ、ということにした。そうと決めればあとはシンプル。迷うことも無く、並ぶことにも慣れてくるのだ。

夕方になると並ぶ時間も少しずつ短くなり、「30分待ちで入れるなんて、ラッキー!」などと思えるようになる。さらに閉館近くになれば、なだれ込めるところも出てくる。その日はほぼ最後までいたのだが、8館ほどの海外パビリオンといくつかのテーマ館、水上ショーもしっかり見られた。シンボルになっている大屋根リングも半周ほど散歩ができて、夜の海風も寒いくらいで心地よかった。歩数は約3万歩。さすがに足は限界に近かった。

 

もう一度行きたいかと問われると、うーん・・・となるのだが、思った以上によかった、というのが正直なところだ。日常では味わえない楽しさや魅力を感じるものは多かったが、それでも一般のテーマパークとは違うので、単純なエンターテインメントでもない。積極的に面白がる気持ちに沿った楽しさ、というところなのだろう。

大阪の子供たちは学校から行くところも多く、たくさんいた子供の集団に、はて、楽しめてるのだろうか、と心配したり、引率を担う先生方に同情したりもしたけれど、思えば、1970年の大阪万博の時は、僕も9歳だった。夏休みに家族と行った大阪万博はとても楽しかった記憶がある。愛媛から大阪へは、関西汽船で夜中に移動する強行軍だったが、覚えているのは会場までジュラルミン色の電車に乗ったこと。自動販売機でのクラッシュドアイス入りのコーラやジュースが珍しくて何度も飲んだこと。動く歩道にびっくりしたこと。太陽の塔が猫背だなと思ったこと。三菱未来館に入るために6時間並んで、その間に2回、並んでいた人が救急車で運ばれたこと、というレベル。いくつかのパビリオンにも入ったのだけど、その中でのことはほとんど覚えていないのだ。それでも「楽しかった」と言えるのは、日常とは全く違う空間世界を全身で感じていたせいなのだろう。まだピカピカの子供たちにとって、全ては新鮮で楽しいのだ。

それにしても、この異常な暑さ。万博会場はとんでもないことになっているのでは、と心配してしまう。5月末でもそれなりに暑かったけど、果たして蒸し風呂のようなこの暑さの中で、あんなに長時間並べるものなのだろうか。それはそれで、忘れられない思い出として残るのかもしれないけどね。

 

ということで、今日の音楽。

関西万博で最初に入ったのはスイス・パビリオンで、切り絵で展開されたスイスの歴史や文化を表したパノラマは楽しくて色々探索してみたくなったし、未来社会への願いが大きなシャボン玉になって浮かび上がる空間は幻想的だった。モニターに映る顔が、何故かみんな「アインシュタイン顔(!)」になる場所もあったりして、大笑いもさせてもらった。

その出口にある販売のコーナーには、いかにもスイスらしいお土産が並んでいた。Made in Switzerland は、何でもびっくりするほど高くて、あまり売れている気配はなかったけれど、その中のいかにもスイスっぽい木でできた牛の置物を見た時、思わず思い浮かんだのが、スイスのジャズ・ピアニスト、ティエリー・ラングのアルバム『リョバ』のジャケットだった。

Lyoba

Lyoba

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このアルバムは10年以上前、梅田タワー・レコードの年末ワゴンセールで、超廉価で手に入れたものだ。全く知らないジャズ・ピアニストの作品ではあったが、赤いジャケットに写るカウベルを下げた牛の姿が何ともスイス的で、そのジャズ・アルバムらしからぬジャケットに「こりゃ売れんやろな」と思いながらも、逆に興味をそそられた。これがなかなかの大当たりだったのだ。

スイスの作曲家ジョゼフ・ボベによる伝統的な民謡を中心にティエリー・ラングがアレンジしているのだが、ピアノとトランペット、ベースに加え、チェロ4本による美しいアンサンブルによって何とも牧歌的で穏やかな世界を作り上げている。特に1曲目の「ラン・デ・ヴァッシュ(牛追い唄)」は、このジャケットの写真の通り、スイスののどかな牧場の雰囲気をひたすら醸し出している。

5曲目の「ルイモ―テレ・ド・ジャン」などを聴いていると、チェロ・アンサンブルを中心とした室内楽のようにも思えてくる。それを受けて美しく響くティエリー・ラングのピアノや、マシュー・ミッシェルのトランペット、ヘイリ・カンツィグのベースは、懸命にジャズの森に引き寄せようとするのだが、そこはやはりMade in Switzerland。やがてスイス的ともいえる牧歌的で敬虔な音の響きに引き戻されていくのだ。

 

エアコンの効いた部屋で、こうやってスイス由来の音楽を聴いていると、静かな気持ちになってとてもリラックスするのだが、一歩外に出ると、体中にモアーっとした空気がまとわりつく。逃げ場のない暑さだ。38度や39度、40度なんて、尋常じゃないよね。それでもまだまだ万博は続くわけで・・・ほんと、お疲れ様です。

 

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『パリ・コンサート』でのキース・ジャレットは、最強の楽曲プロモーターだった

ひと月ほど前のこと。大好きな随筆家、須賀敦子の作品の中で、代表作とは知りながらも未読だった「コルシア書店の仲間たち」を読んだのだが、読了後に何故かキース・ジャレットのピアノソロアルバム『パリ・コンサート』がたまらなく聴きたくなった。40分近くある長いインプロビゼーションと2曲の小品から成るアルバムだが、その中でも特に2曲目の「The Wind」を聴きたかったのだ。

『パリ・コンサート』を入手したのは10年ほど前。キースの新旧録音が続々とリリースされ、正直、新たなアルバムを購入して聴く気も失せてしまっていた頃、たまたまネットで見かけた、異様に熱量の高い紹介文に誘われるように、まだ聴いたことがなかったこの古いアルバムに、ついつい手が伸びたのだった。

思えば『パリ・コンサート』は、数あるキース・ジャレットのピアノソロの中でも少し異質かもしれない。1990年にリリースされたアルバムだが、録音は1988年で、その前後にバッハの平均律クラヴィーア曲集ゴルトベルク変奏曲を録音している。その影響かどうかはわからないが、1曲目のインプロビゼーションでは、バッハの姿が見え隠れするバロック調の音楽が展開される。途中低域の固定音形に誘発される激しい曲調を挟みながらも、やがて天上の音楽とでも呼びたくなるような恍惚の世界へと導かれていく。和声的にも一貫してクラシカルで、決してジャズの方向には傾かない。

 

件の「The Wind」はそれを受けて始まるのだが、新たなインプロビゼーションがスタートしたのかと思わせる軽快な曲頭は、すぐに方向を転換し、徐々にテンポを落としつつ一旦終結。そこからゆったりとしたメロディーが満を持して始まる。澄み切った空間に広がるのは美しくも切ない、夢の中でたゆたうような音楽だ。静かに拡散する清新なピアノの旋律は、大きく形を崩すことなく、豊かな心情の起伏を捉えながら、物語をたどるように続く。幾度かの緩やかなうねりを越え、ようやく出口を見出した音の流れは、儚さをまとったまま、悲しみさえもいつくしむように最後の輝きを残しながら消えていく。直後に湧き上がる観客の歓声や拍手は相当なものだ。少し驚きもあったかもしれない。この6分ほどの音楽の中には、人の心に静かに訴えかける物語が詰まっているのだ。

「The Wind」は、ジャズ・ピアニストのラス・フリーマンが作曲し、1954年にリリースされたチェット・ベイカーのアルバム『Chet Baker & Strings』で初めて披露された古い曲だ。そんな曲がこの時期のキース・ジャレットのソロアルバムの中に入っていること自体、少しびっくりだった。当時の僕の認識は、キースは1999年にリリースした『The Melody At Night, With You』より前には、ピアノソロで他人の曲は弾いていない、というものだった。

それゆえに当初は、新たなインプロビゼーションを展開するはずが、その時の心情の変化から演奏中に方向転換を図り、異例中の異例でこの曲の演奏に至ったのではないか、ということも思った。しかもその曲は、他に演奏するジャズ・ミュージシャンが思い浮かばないようなマイナーな曲だったのだ。

ただ、聞き覚えのある曲だった。絶対にどこかで聴いているという確信はあったのだが、『パリ・コンサート』を初めて聴いた当時は、前述の『Chet Baker & Strings』も聞いたことがなかった頃で、誰のアルバムで聴いたのかは分からないままだった。

 

今回、あらためてこの曲の素晴らしさを再認識したのに合わせて、かつての疑問を少し追ってみることにした。そして行き着いたのが、これも予想外。マライア・キャリーのセカンドアルバム『エモーションズ』だったのだ。

Emotions

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『エモーションズ』はリリース直後に購入したもので、当時何度か聴いたはずだった。ちょうど仕事でも時代を表現する新しい音を探っていた時期だったので、話題の新人のセカンドアルバムを聴き逃すはずはなかった。ただアルバムの最後の曲「The Wind」は、他の曲調とは全く違い、古いジャズの曲にマライア自身が歌詞をつけたもので、今思えば確かに新たな可能性が垣間見える曲だったのかもしれないが、当時の僕の興味は、そこには無かった。それでも、その音楽の断片はしっかりと頭の片隅に残っていたということだろう。

 

今回、気付いたのは『エモーションズ』のリリース日が1991年の9月で、『パリ・コンサート』の出た1990年4月と、絶妙な時間関係にあった事だ。それに関し、先日、マライアのデビューから7年間ほどの日々を綴ったクリス・ニクソンの「マライア・キャリーの選択」を読んでみたのだが、その中にセカンドアルバムで「The Wind」を取り上げた経緯が記されていた。

それによると、セカンドアルバムの制作を始めた頃、マライアとともにこのアルバムで多くの曲を共作しているウォルター・アファナシエフが、リリースされたばかりのキース・ジャレットの『パリ・コンサート』を持参し、「The Wind」をマライアに聴かせたという。彼女はそのメロディーに感動し、飲酒運転事故で亡くなった友人への想いを綴った歌詞を自ら書き下ろしたらしい。さらにマライアは、初挑戦となるジャズの作法の上では、この詞の内容が思い通りには伝わらないと判断し、彼女が歌を引っ張るのではなく、むしろビートに身をゆだねて、その揺れた調子に自分を合わせるという方法を取り、囁くような声でその想いを伝えたということだ。

 

いずれにしても、もうほとんど忘れ去られていた「The Wind」をキース・ジャレットが取り上げたことは、この曲にとって新たな転機になったのだろう。なにしろ、アルバム『エモーションズ』の販売は、全世界で1200万枚。ジャズのアルバムとは2桁ほどちがうのだから、ラス・フリーマンも桁違いにうるおったはずだ。(マライアのアルバムでの印税だけで家が建ったという話も・・・)そして何より、後年のラス・フリーマンは、ジャズ・ピアニストから映画スコアなどの作曲家に転身し、2002年に亡くなるまで多忙な日々を送ったようだ。若い頃から作曲で身を立てることを夢見ていたラス・フリーマンにとって、「The Wind」の飛躍は、夢に向けたビッグステップだったのかもしれない。

2002年の7月に行われたラス・フリーマンの追悼式では、通路まで人であふれた満員の会場で「The Wind」が演奏されたそうだ。その演奏者の中には、初出のチェット・ベイカーのアルバムで一緒だったバド・シャンクなど、1950年代にともにこの曲を演奏した面々もいたらしい。天空でラス・フリーマンも聴いたであろうその演奏はどういうものだったのか、聴いてみたい気もする。

 

ところで、今回色々見ている中で、僕の認識に大きな誤りがあることが分かった。それは、先述した「キースは1999年より前には、ピアノソロで他人の曲は弾いていない」という認識である。実は『パリ・コンサート』の前年の1987年4月14日、キース・ジャレットはスタンダード曲メインのソロ・コンサートを開催していた。場所は東京。できたばかりのサントリーホールで4日間行ったコンサートの最終日であり、その音源も残されていたことを知ったのだ。

4日間の初日の演奏はアルバム『Dark Intervals』としてリリースされていて、少し短めのインプロビゼーションが8曲入ったこの一枚は、僕もリアルタイムで購入していた。では4日目の演奏はいったい何処にあるのか・・・ 

実は当時、VHSとレーザーディスクで発売されていたのだ。日本語タイトルは『ソング・ブック ~ライブ・アット・サントリー・ホール ‘87』、ケース表面には、英語タイトルである『Solo Tribute ~ The 100th Performance In Japan』とあって、1974年の初来日以来100回目となる日本でのコンサート記念に、ジャズ・スタンダードを中心としたプログラムが組まれたものだった。後年、ビデオアーツ・ミュージックからDVDでも発売されたことを知り、今回何とかその中古品を入手。その中にも、ラス・フリーマンの「The Wind」が入っていたのだった。

両者を比べれば様々なことが分かる。導入部分と終結部分は明らかに違う。導入部分の違いは、前述の仮説もそれらしく感じるものだった。展開の大きな流れに違いはないものの、細かい音の取り方はかなり違っている。そこで分かったことは、パリ・コンサートでの演奏が、いかに完成されたものだったのか、ということだ。そぎ落とされた完成度と一音一音に込められた清廉さ。その純度や恍惚度合は、パリ・コンサートでの方が明らかに高い。両者の時間差は1年半。恐らく、当時キース自身が好きだったこの曲の完成度は、時間とともに高められていったのだろう。

 

須賀敦子の文章から思わぬ方向に進んでしまったのだが、いつも彼女の作品を読み終えた時に感じる「儚さへの憧憬」のようなものが、この曲とつながったのかもしれない。それに合わせて、今回はキース・ジャレットの『パリ・コンサート』の素晴らしさを改めて実感した。そろそろ身の周りの煩雑なものを色々整理していきたいところだけど、その中でも最後まで手元に残しておきたいアルバムの一枚になることを確信したのだった。

 

 

<追記>

マライア・キャリーが「The Wind」を選んだもう一つの理由があったようです。

マライア・キャリーの「Mariah」という名前は、とても珍しい名前だったようで、マライア自身、子供の頃は同じ名前の人にほとんど会ったことがなかったそうです。その名前はオペラ歌手だった母親のパトリシアが付けたそうで、マライアが生まれた頃、パトリシアも大好きだった当時の大人気ミュージカル「Paint Your Wagon」の中の「They call the wind Maria」という曲からとったとのこと。日本語に訳せば「風をマリアと呼ぶ」というところでしょうか。まあ、普通に読めばマリアなのでしょうが、そのミュージカルでは、Mariaをマライアと発音していました。何しろ相手は台風のような「風」なので「マリア」では可愛すぎたのでしょう。パトリシアは、より存在感のあるその発音に近づくように「Mariah」というつづりにしたとのことです。ジャズ研究家のジェームズ・ハロッドは、マライア・キャリーがこの「風をマライアと呼ぶ」から、「The Wind」を自分と結び付けた、と記しています。

ちなみに、マライア・キャリーがデビューして大成功を収めてからは、マライアという名前は超人気の名前となり、赤ちゃんの名前ランキングでは、常に上位に入るようになったとか。まあどこの国でも似たようなものかな。

 

<おまけ>

ついでに、「The Wind」の初録音『Chet Baker & Strings』での演奏です。これはこれでいいのですが、この演奏をマライアに聞かせて、同じような結果になったとはあまり思えないかな。まあキース・ジャレットの演奏は、素晴らしかったということですね。

 

 

<関連アルバム & Book>

Complete Sessions

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マライア・キャリーの選択

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夜型生活が朝型に変われど、夜型の音楽志向は決して変わらず

近頃、夜にめっきり弱くなってしまった。夕食時にアルコールでも入ればなおさらだ。おなかが膨れれば一日の疲れがどっと押し寄せ、全身の活動が緩慢になる。外ではそんなことも無いんだけど、自宅だとテキメンだ。そういう時、あぁ、年を取ったんだなあ、と思い知る。

夕食が終われば、やがて一人の時間に移行し、本を読んだり音楽を聞いたりしていた。楽器を弾くのも創造的活動をするのも、この時間だったんだけど・・・今や、なかなかそうはならない。すぐに眠くなる。頭が働かない。気分も乗らない。そのうち、まあそういうことは朝やればいいや、朝は早くから目が覚めてるんだし、などと思うに至って、ハタと気づいた。これって、夜型人間が年齢とともに朝型人間に変貌するっていう、典型的なアレなのか? ・・・うーん、考えないようにしようっと。

 

朝型の生活になるからといって、好みの音楽まで朝型になるわけではない。やはりどう考えても夜型偏重だ。例えば昨年来、何度も聴き倒しているアルバム、アル―ジ・アフタブの『ナイト・レイン(Night Reign)』はその典型で、さわやかな朝に聴く音楽ではない。彼女はパキスタン出身、ニューヨーク在住のシンガー・ソングライターだが、その帯には「夜を愛した比類ない歌声。夜は静寂であり、癒しである」とあり、まるで朝や昼を拒絶するかのような書きっぷりである。

 

それにしてもクセになるアルバムだ。冒頭の曲「Aey Nehin(彼はこない)」から、もう鷲づかみにされてしまった。ミニマルな音の流れにはスマートでありながらエスニカルな要素が散りばめられ、その上に乗るアル―ジ・アフタブの声をより一層神秘的にしている。

3曲目の「Autumn Leaves(枯葉)」にも驚いた。彼女はバークリー音楽大学を卒業していて、ジャズは唯一きちんと勉強したジャンルだというが、一瞬原曲を見失うような、幻想的な演奏だ。途中入るジェイムズ・フランシーズのキーボードは、現代感覚に溢れていて、不思議にマッチしている。

このアルバムに先駆けて先行配信された7曲目の「Raat Ki Rani」は夜にしか咲かないジャスミンの花の名前で、日本語タイトルは「夜の女王」。もう、徹底的に「夜」なのである。

彼女は、前作に引き続き、このアルバムで今年のグラミー賞の「ベスト・オルタナティヴ・ジャズ・アルバム」に、楽曲「Raat Ki Rani(夜の女王)」で「ベスト・グローバル ミュージック・パフォーマンス」にノミネートされたが、今年は受賞できなかったようだ。

 

ところで、僕自身、夜型の音楽をいつごろから好んで聴くようになったのだろう。それはおそらく20歳前後で、多少Jazzらしい音楽を聴き始めてからだろうか。中高生時代に聴いていた音楽からは、夜型の音楽はあまり思い浮かばない。あの頃は持っていたアルバムも少なくて、夜、自室で聞いていたのはもっぱらラジオだった。深夜放送全盛の時代、音楽を聴くというより、パーソナリティーの語りを聞くのがメインで、ヤンタンヤンリクヤングタウンヤングリクエスト)、オールナイトニッポンパックインミュージックと、いつ勉強してたんだっけ、と思えるほどだった。

そうした中でも、あの頃印象的だった「夜聴く音楽」として頭に浮かんできたのは、映画「ひまわり」のテーマ曲だ。この曲は、確か谷村新司ヤングタウンの終盤、リスナーからの手紙を読むコーナーで毎回流れていた気がする。

その番組のおちゃらけた雰囲気は、毎回この音楽とともに一変した。谷村新司があのやさしい声で、リスナーからの長い手紙を読み進める時間。その内容は少し悲しいものが多かった気もするが、僕にとっては「深夜への入り口」を示す曲で、まさに「夜聴く音楽」だった。

 

そういえば、10年ほど前に話題になった、タイトルがそのまま『夜のアルバム』というジャズアルバムもあった。一昨年末に亡くなられ、今何かと話題の八代亜紀がリリースした初のジャズアルバムだ。

夜のアルバム(SHM-CD) - 八代亜紀

夜のアルバム(SHM-CD) - 八代亜紀

  • アーティスト:八代亜紀
  • ユニバーサル ミュージック
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プロデュースとアレンジは、元ピチカート・ファイヴ小西康陽で、それはもう見事にジャズだった。若い頃、クラブシンガーとしてキャバレー回りをしていた彼女は、当時はジャズのスタンダード曲も歌っていたとは聞いていたけど、アルバムが出た時点で触手が動いたのは、多少怖いもの見たさもあったかもしれない。さすがと言えばさすがだけど、意外性は全くなかった。「舟歌」の八代亜紀のままで、しっかりジャズだった。

 

ところで、いつもなら眠くなってもいい時間に書いてるんだけど、一向に眠くならない。そういえば、今日はアルコールが入っていない・・・ひょっとして年のせいじゃなくて、アルコールのせいなのか?!

んー、まあ、そういうことにしておきたいところですが・・・

 

<追記>

映画「ひまわり」のテーマ曲、どんなんだったっけなー、と思い出しながら口ずさんでみると、気が付けば「いい日旅立ち」になっていました。おいおい、似てるやんか。

その後、八代亜紀の『夜のアルバム』を聴いているとき、曲の冒頭から「おどまぼんぎりぼんぎり」と、ジャズらしからぬメロディーが。そうそう、なんか知らんけど「五木の子守唄」が入ってたな、と思ってタイトルを見直すと「五木の子守唄 ~ いそしぎ」とある。すっかり忘れてたけど、途中から映画「いそしぎ」のテーマ、僕の大好きな「The Shadow of Your Smile」になるのだった。初めて聴いた時は特に気にしてなかったけど、この2曲、似てるやんか。というか、いっしょやん。とっても小西康陽的でした。

 

 

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「ボサノヴァ~撃たれたピアニスト」は極上のアニメーションドキュメンタリーだった

テノーリオ・ジュニオル。この名前を聞くと、反射的に、粗いペン画で描かれた男性ピアニストの後ろ姿が頭をよぎる。それは20年以上前に入手したアルバム『エンバーロ (Embalo)』のジャケットの記憶であり、その帯には「ジャズ系ボサノヴァの最高峰、伝説のピアニスト、テノーリオ・ジュニオル唯一のリーダーアルバム」とあった。

その時点では全く知らないピアニストだったが、ちょうどブラジル音楽に関心が高まっていた頃だったので、「伝説」などと言われると、その伝説具合を確かめてみたい衝動に駆られて購入したのだろう。こういう場合、一度聴いてポイとそのままになることもあるのだが、このアルバムは頻繁ではないものの、その後も時々聴くようになった。

6曲目にある「エルドラードでの週末(Fim De Semana Em Eldorado)」のような当時の熱気を感じさせる躍動感あふれる演奏は魅力的だったが、僕の中にある「ボサノヴァ」のイメージとは少し離れている印象で、「サンバ・ジャズ」と言われた方がピンとくる感じだった。ただ、全11曲中5曲を占める自作曲がよくできていて、この豊かな才能にして「唯一の」リーダー作というのは、不思議な気がしていた。

録音は1964年。ボサノヴァ・アルバムの金字塔『ゲッツ/ジルベルト』のリリースと同年で、この時、テノーリオ・ジュニオルは23歳。大学で医学を学ぶ学生だったようだ。そのライナーノーツには、ボサノヴァ・ムーブメントの黎明期、リオやサンパウロダンスホールやクラブでのジャムセッションから、サンバ・ジャズが誕生していった背景と、そこで活躍していたテノーリオ・ジュニオルが、当時のリオ・オールスターズとも呼べるメンバーと録音したのがこのアルバムであることが記されていた。さらに、リリース後、彼は気に入った仕事以外はせず、参加アルバムも多くはなかったこと、1976年にアルゼンチンでの演奏旅行中、消息不明になったことなどが書かれていたが、それ以上の記述はなかった。

 

そのことが記憶にあったからなのだろう。先日、新聞の映画評欄で「ボサノヴァ~撃たれたピアニスト」というタイトルを見た時、即座にテノーリオ・ジュニオルの名前が頭に浮かんだ。その内容に目を走らせると、やはり彼を題材にしたアニメーション作品のようで、強烈に観てみたい思いが湧き上がり、封切の翌週末、梅田スカイビルのテアトル梅田まで観に行った。

監督は、1994年「ベルエポック」でアカデミー賞外国語映画賞を受賞したスペインのフェルナンド・トゥルエバ監督が、「チコ&リタ」でもタッグを組んだアーティスト・デザイナーのハビエル・マリスカルと共同監督を務めていて、スペイン・フランス・オランダ・ポルトガルの合作とのこと。ブラジルやアメリカの作品ではなかった。

映画は米国の音楽ジャーナリスト、ジェフ・ハリスが語り部となって進行する。2010年、彼の書いたボサノヴァ誕生から50年の記事が「ニューヨーカー」に掲載され、その記事に魅了された編集者から、世界中の音楽に影響を与えたボサノヴァ・ムーブメントについて本を書くことを提案される。ジェフはそのプロジェクトのために取材を続ける中、今まで聞いたこともなかったピアニスト、テノーリオ・ジュニオルの存在を知る。取材する多くの関係者・ミュージシャンに絶賛されながらも、その後名声を得ることなく、アルゼンチンでの演奏旅行中に行方不明になったテノーリオ・ジュニオル。その存在が頭から離れなくなったジェフは、彼の足跡をたどるようになる。様々な糸口を手繰りながら精力的に取材を進めていくと、やがて南米の痛ましい歴史とその波に飲み込まれた「伝説のピアニスト」の悲劇に突き当たるのだ。

 

語り部であるジェフ・ハリスの存在自体はフィクションだが、他は全て実際の音声にアニメーションをあてている。脚本をスタートする段階で、当時を語るミュージシャンやテノーリオとつながりのある人たちへのインタビューは、実に150時間にも及んだというが、その顔触れがすごい。ボサノヴァやMPBのビッグネームが次々と現れ、ボサノヴァ期の思い出やテノーリオとの交流を語り、その才能を称賛し不在を惜しむ。映像はアニメーションだが、その思いはひしひしと伝わってくる。

最後のアルゼンチンでの演奏旅行は、当時ブラジルの軍政を逃れてブエノスアイレスに住んでいた詩人のヴィニシウス・ヂ・モライスとギタリストのトッキーニョのバックバンドメンバーとしてだった。ヴィニシウス・ヂ・モライスといえば、アントニオ・カルロス・ジョビンと共にボサノヴァ・スタイルを生み出した立役者だ。ボサノヴァは二人で共作しジョアン・ジルベルトが歌った「想いあふれて」で始まり、同じく「イパネマの娘」で頂点を極めた。ヴィニシウスはテノーリオの才能を認め、よく声をかけていたらしい。ツアー千秋楽の夜、ホテルに戻ったテノーリオが姿を消した後も、ヴィニシウスが中心となって捜索しアルゼンチン政府に掛け合って人身保護令状を申請したというが、不幸にもその翌日、アルゼンチンでは軍事クーデターが勃発したのだ。その数年後にヴィニシウスは亡くなるが、最後までテノーリオのことを気にかけていたという。

終盤、テノーリオの妻カルメンと、父親の記憶も乏しい残された子供たちや孫たちも含めた大家族へのインタビューもあった。遺体もない失踪事件だったので、家族は年金ももらえず苦労をしたというが、それでも、みんなとても明るく、救われた思いがした。時は少しずつその悲しみを洗い流してくれるのだろう。

 

最初は、インタビューも含め、ドキュメンタリーをアニメーション化することに少し懐疑的だったが、見終わった後の印象は180度変わっていた。途中、ボサノヴァ隆盛期に、リオで自らのコンサートを終えたエラ・フィッツジェラルドが、終演後にすぐさま飛び出してテノーリオもよく出演するクラブ「ボトルズ」のステージに飛び入り出演するシーンや、ビル・エヴァンスのファンだったテノーリオ夫妻がブラジル公演で来ていたビルやトリオメンバーと夕食を共にし、音楽談議に花を咲かせるシーンなども違和感なくはめ込まれていた。アニメーション映像はダイナミックな演出を可能にし、様々なエピソードを時空を超えてシームレスにつないでくれる。その豊かな色彩に彩られた映像は、テノーリオ・ジュニオルの人生と音楽、そしてその時代を、現代の空間に鮮やかに浮かび上がらせてくれていた。

 

<追記>

今まで気にしたことはなかったのですが、映画ではテノーリオ・ジュニオルの演奏する音楽を「ジャズ・サンバ」ではなく「サンバ・ジャズ」と呼んで区別しています。「サンバ・ジャズ」はブラジルのジャズ・ミュージシャンがボサノヴァを演奏する際にサンバ的2拍子のリズムをベースにジャズ的なアプローチを行ったものですが、「ジャズ・サンバ」はアメリカのジャズ・ミュージシャンがブラジルの楽曲を真似て4拍子で演奏することが多かったジャズベースのブラジル風音楽で、両者は全く別物なのだそうです。ふーーーん。

ちなみにこの映画の原題は「They shot the piano player」で、「Bossanova」なんてどこにもありません。なるほど~。日本だと付けるよね。しかも「Samba Jazz」じゃないよね。

 

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ビルボードライブ大阪での追悼の一夜は夢のような時間だった

少し時間がたってしまったけれど、今回は昨年末に行ったライブの話。

母が11月の中旬に亡くなり、あわただしさの中で、気がつけば師走に突入していた。何件か入っていた忘年会は、気持ちがついていかなかったので思い切って全てキャンセル。ただ、心のどこかに引っかかっているライブ情報がひとつあった。「伊藤ゴロー+ジャキス&パウラ・モレレンバウム JAPAN TOUR 2024 ~ Tribute to Ryuichi Sakamoto」で、場所は梅田のビルボードライブ大阪だった。日本の地でボサノヴァの世界を追求する伊藤ゴローと、晩年のアントニオ・カルロス・ジョビンをバックで支えたモレレンバウム夫妻の共演。それぞれ関係の深かった坂本龍一へのトリビュート公演であり、あの大好きなアルバム『CASA』も透けて見える。

そのことを思い出したのが12月1日。少し落ち着いてきたタイミングだったのだろう。開催日を調べてみると2日後の12月3日。今さら席なんてないだろうな、と思いながらも見てみると17時30分からのファースト・ステージにまだ空きがある。それを確認した瞬間、ずっとしぼんでいた心の奥が、ふーっと膨らむ感触があった。坂本龍一への追悼の意味合いもあるんだからいいよね、なんて言い訳をしながら、エイヤッと予約を完了。気分は少し軽やかになっていた。

 

当日は早めに仕事を切り上げて梅田ハービスエントの地下にある会場へ。12月に入っていたので、エントランスは既にクリスマスの装いで、席に着き開演までの小一時間、ビールや軽食で小腹を満たしながら気分を盛り上げつつ、万全の視聴体制に入った。

   

 

それは、夢のような時間だった。一曲目、「As Praias Desertas」の冒頭、ピアノの響きの上にチェロのフレーズが乗る。待ちわびたように歌い始めるパウラの声を聴いた時、思わず身震いした。坂本龍一がモレレンバウム夫妻と作った屈指の名盤『CASA』の録音から四半世紀もたっているとは思えない鮮烈さだ。

ジョビンが亡くなって7年後、ジョビンの自宅スタジオでジョビンの音楽を収録した2001年リリースのアルバム『CASA』。パウラ・モレレンバウムの声に衰えは無く、ジャキス・モレレンバウムのチェロは変わらず豊かで隙が無い。ジョビンを敬愛する坂本龍一が新たな解釈で仕立て上げたボサノヴァが、まるで印象派音楽のように湧き上がる。残念ながらそこに坂本龍一はいないが、ピアノを担当する佐藤浩一の演奏は、見事にその世界を再現していた。ギターで仕切る伊藤ゴローも途中感慨深げに話していたが、目を閉じ聴き入ると『CASA』そのものの世界が広がり、感動的だった。他にも「Amor Em Paz」や「O Grande Amor」「Sabia」など、『CASA』の中でも、これはと思う曲が選ばれていた。

坂本龍一の曲もたくさん演奏されたが、その中にパーカッションを担当する角銅真実の歌う「美貌の青空」が挟まれた。僕はこの人を知らなかったのだが、とても雰囲気のある歌声で、大貫妙子のイメージの強いこの曲を、自分の音楽にしていた。

アンコールの1曲目は、やはりあの曲「Merry Christmas Mr.Lawrence」。亡くなって余計に、坂本龍一にとってのこの曲の存在意義を深く感じることができた。そしてアンコールの2曲目、最後の曲は坂本龍一の「SAYONARA」で、この夢のようなライブはパウラの歌声で締められた・・・いや、全員で歌っていたような気もする。

演奏を聴いている時、母の姿が頭をよぎることがあった。日がまだ浅く、心のどこかに隠れていたのだろう。容体が悪化してから、その日までのことを思うと、様々な思いが湧き上がる。決して後悔はないが、もう少しできることがあったかもしれない。ただ、そんな中でも穏やかな気分に包まれていたのは、その音楽に救われていたからなのだろう。

 

ライブの3日後、テレビのニュースで、3日前に見たばかりのビルボードライブ大阪のエントランス映像が何度も映し出された。12月6日に同じ場所でライブをするはずだった中山美穂が、その日の朝、東京の自宅で亡くなっているのが発見されたのだ。54歳。早すぎる死だった。人の命の儚さを痛切に感じながら、一連の「いのち」でつながった出来事を、思い返したのだった。

 

 

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バッハの「エール」に乗せて母を送る

11月16日10時34分。母が静かに逝った。88歳。もうひとつ歳を重ねる1週間前の旅立ちだった。

24年前に父が急逝してからは、愛媛の実家でひとりで暮らしていた母だが、八十路を迎える頃から少し認知症状が出始めた。それでも近くに住む僕の妹夫婦の力も借りながら、何とか一人で生活できていたのだが、そろそろ限界かも、と聞かされていた矢先にコロナ禍に突入。日本中が混乱する中で、様子を見に帰郷することもできなくなった。

田舎でのコロナへの警戒感は大阪よりはるかに強く、帰省して母に会おうものなら、そこから2週間、母は誰にも会えない状態となり、デイ・サービスにも病院にも行けなくなる。歯がゆい状況の中、実家近くの施設探しをしてもらったが、そもそも平時でも空き待ち状態であり、さらにコロナ禍で募集を中止しているところも多く、どうにも見つかる気配がなかった。

変なことになる前に早く手を打たなければならない。とにかく緊急避難的に入居できる場所をと探し回る中、大阪の自宅近くで、開設して間もない新しい高齢者施設に巡り会えた。ちょうど東京オリンピック直前の緊急事態宣言の最中だったが、何とか受け入れてもらえることになる。形式的には介護付き高齢者住宅で、部屋を1室借りた上で、食事や生活全般に関するサービス、訪問介護訪問看護を24時間受けられて、訪問医や訪問歯科医の往診もある。コロナ禍で面会制限は間欠的に様々なレベルで続いたが、近くの施設だったので、必要なことに小回りよく色々対応できた。

慣れない場所に連れてきたことで、いやがるのではないかと最初は心配していたが、施設も新しくスタッフも若い、明るい雰囲気の場所だったので、母もすぐに馴染み、結局帰りたいとは一度も言わなかった。大阪に来ていることは何度も伝えたが、その時は驚くものの、すぐに忘れて愛媛にいると思っていたようだった。

入居から半年後、元々その兆候はあったのだが、深夜に救急車で病院に運ばれ心不全で2か月程入院、医師からは覚悟するようにと伝えられた。そこは何とか持ち直して退院にこぎつけたのだが、長期の入院で予想以上に足腰が弱っていた。元々背骨の圧迫骨折もあったので、それ以降は車いすを多用するようになる。

そこからは、転倒による大腿骨骨折や誤嚥性肺炎での入院もあり、徐々に体力を落としていった。それでも、お正月には外出許可が出て家族で迎えられ、桜の季節には毎年お花見を楽しむこともできた。年を経るにしたがって無邪気に返る母だったが、家族の顔と名前を忘れることはなかった。ひと月ほど前からは、ほとんど食べられない状態になり、最期は、暮らし慣れた施設の自室で、家族に見守られながら静かに旅立った。

 

葬儀は大阪で、家族・親族のみで行ったが、長年コーラスも続け、音楽が好きだった母の旅路を最後に彩る曲は何がよいかを考えていた。そんな中で、母との忘れかけていたエピソードを思い出した。

僕は学生時代、大学のオーケストラでチェロを弾いていたが、母には一度だけオーケストラでの演奏を聴いてもらったことがある。それは大学在学の最終年、一度きりの演奏会のために近隣の大学のOBや現役メンバーで結成し練習を重ねてきた室内オーケストラだった。日頃学生オケではあまり演奏しない曲を集めた演奏会で、開催日は卒業式の翌日だった。

卒業式には両親も出席したので、聴いてもらう良い機会だったが、父は残念ながら仕事の都合で残れなかった。母は卒業式の日は僕のアパートに泊まり、三日後には引き払うアパートの掃除を引き受けてくれた。僕の方は卒業式の後も、翌日の午前中も直前練習があったため、母の相手をほとんどできなかったが、地図を片手にちゃんと時間通り会場まで来てくれ、演奏を聴いて喜んでくれた。

その日のメイン曲はJ.S.バッハの「管弦楽組曲第3番」だった。冒頭の「序曲」から弦に合わせて管楽器やティンパニが鳴り響き、壮麗な祝祭の雰囲気で始まるこの組曲は、3本のトランペットのハイトーンでの演奏が難しいこともあるのか、学生オケで通しで演奏されることはあまりない。ただ、2曲目の「エール」は、調を変えた編曲版が「G線上のアリア」として有名になったこともあり、単独で演奏されることも多い誰もが知る曲である。編曲版ではなく、組曲の一曲として穏やかにさり気なく演奏される「エール」を聴くと、いつもあの福岡での最後の演奏会を思い出す。その後もたびたび母の思い出話に上ったあの演奏会のこの曲を、母はどんな風に聴いていたのだろう。

そういえば、演奏会の終演後、ロビーで母に初めて彼女を紹介した。一緒に母の最期を見守ってくれた妻との最初の日でもあったのだ。

葬儀で流すバッハの「エール」には、没後250年を記念して発売されたバッハ大全集のアーノンクール盤を選び、最後の献花の間、そして花が好きだった母の棺いっぱいに全員で花を手向ける間中、繰り返し流し続けた。母の魂は、どこかでこの音楽に乗せた思いを、感じてくれただろうか。

 

 

 

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「虎に翼」のメインテーマをカスタマイズしてみる

「虎に翼」も、いよいよ最終週。戦前から始まる法律家の話なので時に重い展開もあったが、朝ドラにふさわしく元気がもらえる気持ちの良いドラマだった。

思えば始まったばかりの頃、主人公・寅子のモデルにもなった日本初の女性裁判所長の一生を描いた本「三淵嘉子の生涯」を読んだが、戦前・戦中・戦後を生き抜き戦ってきた彼女の姿は、多少の設定の違いはあるものの、そのままドラマに反映されていた。

シシヤマザキロトスコープ映像とともに流れる米津玄師の主題歌が聴けなくなるのも寂しいが、このドラマを音楽面で大きく支えたのは、何といっても劇中のメインテーマである「You are so amazing」だ。当初はインスト版だけだったが、前半最大の見せ場となった寅子の夫・優三が出征するシーンに向けて英語の歌詞のついたバージョンが流された。そのことに気づいた時の違和感は、戦時中のシーンと英語歌詞が一瞬ミスマッチに感じられたからなのだろう。それでもその少し枯れた男性の優しい歌声は、切ない別れのシーンに見事にはまり、何とも言えない感動を連れてきた。

歌っているのは、ベル・アンド・セバスチャンのボーカル、スチュアート・マードックだと知ったのはその日の夕方で、その意外性に少し驚いた気がする。劇伴音楽を担当していた森優太が、自ら作詞・作曲したこの曲を、今、世界で一番歌ってほしい人は誰だろうと考え、ダメ元で打診したところ、図らずもリモートレコーディングが実現したということだった。

「僕だったら誰に歌ってもらいたいだろう。」その時、ふと思ったことだ。もちろんスチュアート・マードックもよかったけど、頭に浮かんだのは、英国グラスゴー出身のバンド、ブルー・ナイルのフロントマンであるポール・ブキャナンだ。ブルー・ナイルは結成40年にしてアルバムはたった4枚しかリリースしていない超寡作のグループだが、僕の大好きなバンドだ。

ポール・ブキャナンもソロで一枚アルバムを発表している。2012年、56歳の時にリリースしたアルバム『Mid Air』だが、目下、バンド作品も含めて最も新しい作品であり、今まで何度も何度も聴いてきた僕の愛聴盤だ。

このアルバムのポール・ブキャナンの声は、バンドでのアルバムとは違って多少不安定なところもある。まるで深夜にひとりきりでピアノの前に座り、弾き語りするのを一発録りしているような印象だ。横にスコットランド産のモルトウィスキーがグラスに注がれていて、曲の合間に口に含み喉を潤す。心地よい酔いが少しずつ全身を巡り、生み出される音楽も少しずつ全身を包む・・・とまあ、そんな感じだ。(知らんけど)

 

このアルバムを入手した頃、聴き入っていると、頭の中をある懐かしいシーンが巡り始めることがよくあった。それは学生時代のピアノ室でのシーンだ。僕の通った大学の学科棟の地下には、24時間いつでも演奏できるピアノブースが大小含めて10室くらいあった。今では考えられないが、部屋には鍵もなく、昼間でも夜中でも、行きさえすれば部屋に入ることができた。深夜酔っ払ってアパートに帰る気にもなれず、大学に戻ってピアノ室に行ったことが何度あったことだろう。深夜の2時とか3時に行っても、時にピアノやバイオリンの音が聞こえてくる部屋もあったりしたので寂しくは無かった。そんな中で、酔いに任せて気分よくポロポロと弾いてみることもあったが、思い出すのは演奏しているシーンではない。冬の寒い日、狭いピアノ室の隅でピアノカバーにくるまって眠っている、そんなシーンである。

こんなことを言うと何だけど、あの黒いピアノカバーは厚手でシルキーで、とても温かい。恐らく酔いが醒めつつある中で眠くて寒くて禁断のピアノカバーに手を付けたのだろう。気が付くとピアノカバーにくるまって眠っていたようだった。酔いは醒めているがぼーっとした頭に、遠くの部屋で誰かが弾いているピアノの音がうっすら心地よく響き、しばらくは横たわったままじっと聞いていた、そんなシーンだ。(良い子はマネをしないでください。しかし今でもピアノカバーって一般的なのだろうか・・・)

そういえばベル・アンド・セバスチャングラスゴー出身。「グラスゴーの至宝」などと書かれているのを読んだ気もするが、それを言うなら、ブルー・ナイルだって同じだ。この人口60万人ほどのスコットランドの街には、人の心をつかむ音楽の種が散らばっているのかもしれない。

「虎に翼」の最終週。完結に向けて、メインテーマが流れるかどうかはわからないが、頭の中でカスタマイズされたポール・ブキャナンの歌う「You are so amazing」をイメージしながら、長かった物語のエンディングを祝うことにしよう。

 

 

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Mid Air

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