Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

懐かしくも新しい

 もう一年以上前のこと。突然テレビから流れてきたドゥービー・ブラザーズの「What A Fool Believes」を耳にして、不思議な感覚に陥った。目を向けると、キムタクが出てくる車のコマーシャルだったが、あの特徴的で軽快なイントロが30年以上の時を経てとても懐かしいのに、何故か思いっきり新しく感じたのだ。

  ☆ Link:TOYOTA トヨタウンCM5「ラブ&ジーンズ 市長登場」篇

 イントロに続き、わずかに歌が流れただけでCMは終わったが、当然の如く、続きが聴きたい、さらにはこの曲の入ったアルバム 『Minute By Minute』 が久々に聴きたい、となる。とは言っても確かドゥービー・ブラザーズのCDは一枚も持っていなかったはず。でも、聴きたい、聴きたい、聴きた~い...ということで、押入れの中をひっくり返し、ダンボールに詰め込まれていた大量のカセットテープの中から、件の一本を必死のパッチで探し出したのだった(関西ローカルです)。

 カセットテープのインデックスカードに書かれている日付は1980年6月30日。確か大学に入って間もない頃、友人の持っていた2枚のドゥービーのアルバムを、カセットテープの両面にそれぞれ録音させてもらったものだ。さて早速、と思って、はたと気づいた。そういえば、息子が使っていたカセット付きのミニコンは、少し前に廃棄したんだっけ。ということで、携帯型のカセットプレイヤーを探し出し、充電をしてインナーフォンを装着、さて聴くぞ、とプレイボタンを押すも、反応なし。回らない。そこに至って初めて、我が家にはカセットテープを聞く手段が、既に消滅していることに気づいたのだった。

 その後、聴きたい気持ちはふつふつと燻っていたんだけど、先週になってようやくアルバム 『Minute By Minute』 をCDで買いなおし、懐かしい音楽にどっぷり浸った。

 

 それにしても、ボーカルをとっているマイケル・マクドナルドの声は、いつ聴いてもシビれる。僕の好きな男性ボーカルの声の中でも、間違いなく3本の指に入るだろう。少し高めの、ソウルフルだけど生真面目な感じのハスキーボイス。笑顔なんて似合いそうにないちょっとシリアスなくぐもった声。「What A Fool Believes」は、そんなマイケル・マクドナルドを頂点に引き上げた曲でもあった。

 この曲はビルボードチャートでトップになり、1980年のグラミー賞・最優秀レコード賞を獲得、さらに最優秀楽曲賞もとって、この曲を共作したマイケル・マクドナルドケニー・ロギンスにもスポットが当たった。ただ、日本ではなぜか、その前年にグラミーをとったビリージョエルの「素顔のままで」や、前々年のイーグルス、「ホテル・カリフォルニア」ほどには、流行らなかったと記憶している。

 しかし、僕は当時、米国発の音楽を色々追う中で、この曲の影響力の絶大さを目の当たりにした。楽曲の良さもさることながら、スタジオミュージシャンとして長年鳴らしてきたマイケル・マクドナルドが見せるピアノでのこの曲特有の奏法と音形は、その後さまざまな楽曲に飛び火し、そのたびに僕達も面白がって、話題にした。

 例えば、ロビー・デュプリーの「Steal Away」。1980年発売のAORの名曲だが、途中、おおっと思うような音形が出てきて思わずうなづいたものだ。

 そうそう、ポインター・シスターズの「He’s So Shy」も、ピアノではなかったけど、そのテンポといい、サビの部分の伴奏音形といい、影響を受けてるんだろうな、と感じていた。同じ1980年発売で、ビルボードのチャートでも結構上位まで行ったはずだ。まあここまでくれば、日本でも松田聖子の「白いパラソル」の前奏なんて、グレーゾーンなんだろうけど...

 ところで、マイケル・マクドナルドと共作したケニー・ロギンスは、日本ではその5年後の「フットルース」あたりまで、あまり知られてはいなかったけど、やはり同時期の自分のアルバムにこの曲を入れている。これが、ギター主体で、結構雰囲気が違うわけで、やはりマイケル・マクドナルドのあの奏法が、当時のこの曲の決め手だったのかな、という気がする。

 

 35年近く前のこの曲が今でも新鮮に響くのは何故なんだろう。あるいは、当時のことを知っている自分には特別にそう聞こえるだけなのかもしれないと、たまたま帰省していた息子に聞いてみた。彼曰く。「最近の曲かと思った。古く感じない。」ふむふむ。君は正しい!

 その要素は色々あるのだろう。今も変わらないピアノの入ったバンド編成と、いい声、コーラスが主体であること...いやいや、編成だけのせいではない。完成されて隙のない独自性のある音楽や演奏は、いつの時代にも、新鮮に響くものなのかもしれないね。

 

<おまけ>

 この曲が流行ってから十数年後、ケニー・ロギンスのライブにマイケル・マクドナルドがゲスト出演した時の「What a Fool Believes」の競演です。ギターを前面に出したケニー・ロギンスバージョンの一端が表現されています。同じ曲とは思えないくらいだけど、これはこれで、結構いけますよね。

 

 

<関連アルバム>

 

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ドレス一枚と愛ひとつ

 春を感じさせてくれるもの。その一つに、明るく響く弦楽合奏の音がある。誰もがそういう気分になるのかどうかはわからない。ただ僕自身のその感覚には、思い当たる記憶がある。

 学生時代、3回生の3月末にチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」を、4回生の3月末にはドボルザークの「弦楽セレナーデ」を演奏した記憶だ。どちらもその演奏会のためだけに、近くのK大のOBを中心に結成された小さなオーケストラでの演奏だったが、特に4回生の時は確か卒業式の翌日が本番で、その二日後には引越しの荷物を送り出し、チェロだけを抱えて福岡の地を後にした。どちらもアマチュアにとっては難曲で、演奏会までの練習も思い出深いが、その音は、桜の季節とも重なる期待と不安、別れと出会いの記憶と交じり合い、春を想起させる導線になっているのだろう。

 思えば、僕の大好きなあの曲もまた、弦楽合奏に乗せた優しい声で、しばしば春を感じさせてくれた。初めて出会って20年近くになるだろうか。何度聴いても胸がいっぱいになる、僕にとっては宝物のような曲。弦楽合奏と言ってもクラシックの曲ではない。ボサノバ以降のブラジリアン・ポップを牽引し、70歳を超えた今なおその中心で活躍する偉大なミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾが、1994年にリリースしたアルバム 『粋な男(Fina Estampa)』 に収録されている「ドレス一枚と愛一つ(Un Vestido Y Un Amor)」だ。

 

 カエターノ・ヴェローゾの音楽を認識したのは1997年、当時リリースされたばかりの彼のアルバム 『リーヴロ』 が音楽雑誌で取り上げられているのを読んで興味を持ってからだった。ブラジル音楽といえばボサノバの名盤くらいしか聴いたことがなかった頃だが、ちょうど仕事で新しい音をひたすら求めていた時期で、米・英発の音楽だけでは行き着けない領域にこそ、斬新で新鮮な何かがあるような気がしていた。

 『リーヴロ』 の帯には「デビュー30年」とあって、カエターノも既に50代半ばだったが、そのアルバムに詰まった音楽の放つ香りは鮮やかで、リズムセクションにはブラジルの伝統楽器をちりばめながらも、先進的で斬新な音や音楽の要素が随所に盛り込まれていた。さらに、現在でもポピュラー・ミュージックの世界で最高のチェロ奏者であり、アレンジャーでもあるジャキス・モレレンバウムのプロデュースによる素晴らしいオーケストレーション。その上に、カエターノの優しく甘い声が乗る。もう僕は瞬く間にこの稀代のクリエーターとその音楽の虜になり、すぐにそこから遡って3年前に発売されていたアルバム 『粋な男』 に行き着いたのだった。

 『粋な男』 は、今にして思えばカエターノの企画盤ともいえる。オリジナルメインで数々の作品をリリースしてきた彼のアルバムの中では異質の、全曲スペイン語で歌われるラテン懐メロの集大成なのだ。とは言っても、日本人の僕にとってはほとんど知らない音楽であり、カエターノの優しい声と、ジャキスの美しいオーケストレーションによって彩られた、立派なオリジナルアルバムだと感じていた。

 これらの曲はカエターノの子供時代、まだブラジル音楽がラテン音楽そのものだった頃、ラジオからよく流れていたのだろう。ブラジル音楽がラテン音楽から離れ始めたのは、恐らくはボサノバからであり、その後MPB(ブラジリアン・ポップミュージック)が広がって以降は、独自の進化を遂げていった。そして、その先導役こそがカエターノ本人だったのである。

 このアルバムでカエターノは、アルゼンチンやキューバ、メキシコ、ペルー、プエルトリコなどの、20世紀前半のラテン音楽の定番をバリエーション豊かに選んでいるが、その中に1曲、新しい曲を忍ばせていた。その曲こそが、「ドレス一枚と愛ひとつ」で、このアルバムの2年前にアルゼンチンのロック系シンガーソングライター、フィト・パエスがヒットさせた曲だったのだ。当時アルゼンチンローカルのこの曲の永遠性をカエターノは見逃さなかったのだろう。確かに、このアルバムの中にあっても、何の違和感も無い。むしろ、ジャキス・モレレンバウムの構築した弦楽によるオーケストレーションは、カエターノの表現するロマンティシズムをしっかりと支え、本アルバム屈指の音楽に仕上がっている。

 タイトルがまたいい。スペイン語なので、歌詞の内容はよくわからないが、インナーブックに収められた日本語訳は、遠く離れた異国の地(恐らくスペインだろう)で出会った女性に向けて語られている。その内容は、多分に内省的で、少し感傷的だ。終盤、タイトルに繋がる「君の荷物は、ドレス一枚と愛ひとつ」という文言が出てくるが、これはその女性に求める物。ただそれだけでいい、という思いなのだろう。

 この曲は、カエターノの選曲によってグローバルに認知された。そして、そのときから20年近くたった今も、世界中の多くの人に愛され続けている。

 

 春を感じさせてくれるもの。明るく響く弦楽合奏に乗った「ドレス一枚と愛ひとつ」。何日かぶりに降り注ぐあたたかい陽射し。カップに注がれたアールグレイの香り。何気ない春の休日、時はゆったり、流れていく。

 

<追記>

 「ドレス一枚と愛ひとつ」の作者のフィト・パエズはアルゼンチン・ロックの3大スターの一人ですが、カエターノより20歳近く若く、この曲がヒットした当時は、まだ20代でした。その後、映画監督や俳優もされたようですが、50歳を超えた今も、彼の本国での人気は衰えていないようです。Youtubeで見つけた2年ほど前のリサイタル映像でのこの曲を観れば、その人気の程がわかります。この曲を、客席のお客さんは、最初から当たり前のように一緒に歌っています。感動的です。(ほかのライブ映像でもそうでした。愛されている曲なのでしょうね。)

 フィト・パエズが1993年にリリースした、この曲の入ったアルバムと共に、映像も紹介しておきます。

 

 

<関連アルバム>

粋な男

粋な男

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秋でもないのに...

 秋でもないのに、「When October Goes」が無性に聴きたくなった。昨年もそうだったように、この時期、晩秋に通じるような感覚に陥ることがよくある。その背景を普段意識することはあまり無いのに、無意識に求める音楽から、ふと自分自身の心持ちに気づかされるのだ。期末という点では、様々な思いが重なる時期ではあるんだけど、やはり季節は春。4月になればそんな気分もどこかにかくれてしまうんだろうな。

 僕がこの曲を知ったきっかけは、日本の老舗ジャズレーベル、澤野工房から2002年に発売されたジャズピアニスト・山中千尋のセカンドアルバム 『When October goes』 だった。思えば、その少し前から、僕の良く行くCDショップでも澤野工房のコーナーができていて、リリース作品を紹介するパンフレットが陳列されたりもしていた。

 当時はパンフレットを持ち帰ってはみるものの、国内盤なので輸入CDの倍ほどの価格であり、欧米を中心とした名前も知らないアーティストの作品を購入するには、少しハードルが高かった。そんな中で見かけたチヒロ・ヤマナカ・トリオのファーストアルバム 『Living Without Friday』 は、日本人名ということもあり、その鮮やかなジャケットと合わせて結構目立っていたが、気にはなるものの、やはり購入するには至らなかった。

 ちょうどその頃、偶然にもテレビから聞こえてきた「山中千尋」の名前に吸い寄せられるようにして観たTBSの番組「情熱大陸」で、当時ほとんど知られていなかった彼女の姿を初めて目にしたのだ。調べてみると放映日は2003年3月30日だったようだが、そこに映し出された山中千尋は、確かな才能を感じさせながらも、その華奢な体で、何かに突き動かされながらぎりぎりの状態で演奏しているように見えた。確か彼女自身が抱えた病気の話もあったと思う。初の日本でのツアーに点滴を打ちながら気丈に臨む彼女の姿はとても痛々しかったが、その衝動は何の外的要因からでもなく、彼女自身の内側から溢れ出る音楽に対する思いと、それに忠実に従おうとする意志の表れなのだろう、と感じたのだった。

 その映像を目にした直後に、CDショップの澤野工房のコーナーで迷わず購入したのが、数ヶ月前に発売されたばかりの彼女のセカンドアルバム 『When October Goes』 だった。そのアルバムは、映像から感じた危うさなどどこにもない、安定感すら漂う素晴らしい技術と様々な音楽的アイデアに満ち溢れた作品だった。

 トリオのメンバーもすごかった。当時既にニューヨーク屈指のリズムセクションとの触れ込みだったが、ベースのラリー・グラナディアとドラムスのジェフ・バラードといえば、まさに現時点のトリオの最高峰、ブラッド・メルドー・トリオのレギュラーメンバーであり、メジャーレーベルではなく、通天閣を臨む大阪・新世界の商店街にひっそりと存在する澤野工房レーベルでのレコーディングは、まさにアーティストとしての山中千尋の才能に引き寄せられてのことだったのだろう。

 

 さて、話を元に戻そう。僕は当時、このアルバムの8曲目にあるタイトル曲に強く引き込まれた。前奏も無くいきなりさらっと始まるこの曲から、山中千尋の音楽の醸し出すさり気無い情感に捉えられたのだ。

 作曲はバリー・マニロウとなっていたが、聴き覚えはなかった。あるいは聴いたことはあったのかも知れないが、まだ若くて新しい音楽を常に求めていた僕自身のフィルターには引っかかってこなかったのだろう。バリー・マニロウの原曲を聴いたのは随分後になってのことだ。そこで聴いたこの曲は、予想通り美しく切ない曲だった。1984年のバリー・マニロウのアルバム、『2:00 AM Paradise Cafe』 に収録されている。

 この曲の歌詞は、「酒とバラの日々」や「ムーン・リバー」などで4度オスカーを獲得した、アメリカを代表する作詞家、ジョニー・マーサーの作だ。彼は1976年に亡くなっているので、1984年リリースの本作とは時間的に合わないのだが、実はこの詩は、彼の妻が遺品を整理していてデスクの片隅で偶然にも見つけた未完の遺作だったらしい。彼女はその内容に強く心を動かされ、ジョニー・マーサーとも懇意にしていたバリー・マニロウに曲をつけてもらおうと閃いたそうだ。バリーもその詩の奥に流れるものに心を動かされ、すぐに曲として完成させたという。その歌詞は、粉雪が舞い始める晩秋の情景を詠みつつ、人生の上でも晩秋を迎えた情感と重ねていくものだ。ジョニー・マーサーが晩年を迎え、胸に去来するものを静かにしたためた、そういう作品だったのだと思う。

 僕も、こういう音楽が、身に沁みる年になってしまったのかな。そんなことを、感慨を持って思い返したわけだけど、まだそこまでは来ていないだろう。せめて初秋くらいでありたいんだけどね。

 秋でもないのに、そんなことを思いながら、「When October Goes (10月が過ぎ行く時に)」に聴き入る春の夕暮れなのでした。

 

<追記>

 その後の山中千尋の大活躍は、今更言うまでもありません。2005年には、ユニバーサル・ミュージック/Emarcyレーベルに移籍し欧州デビュー、2011年には日本人として初めて、アメリカの名門・DECCAレコードと契約し、全米デビューを果たしています。日本では今や、上原ひろみと共に、実力・人気共に申し分ないインターナショナル・アーティストになりましたね。(ちなみに僕は、どちらかと言えば、「ちひろ派」でしょうか。。。)

 

 

<関連アルバム>

2:00 Am Paradise Cafe

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The Other Side of Love

 先日、今年の「耳鳴りミュージック・第1号」が個人的に発生してしまった。特定の曲やメロディーが耳について離れず、頭の中をぐるぐる回るようになり、ついには熱に浮かされるように無意識のうちに口ずさんだり、鼻歌で歌ったりしてしまって、「また同じ曲?」とまわりから白い目で見られる、というあれだ。ここに来てようやく抜けてきたが、今日はその話でいくことにしよう。

 半月ほど前、今や大女優の風格すら漂う中谷美紀を、休日の朝、テレビの情報番組で目にすることがあった。恐らく最近では当たり前になっている、新しく始まるドラマの番宣を兼ねたゲスト出演なのだろう。そういう場所であまり見かける人ではないので、僕もちょっと興味深く見ていると、うちの奥さんが微妙な質問をしてきた。

「この人、いくつくらい?」

 そんなこと僕に聞かれても...と思いながらも、知ってる情報から頭の中で少し計算して「う~ん、40歳くらいかな。」と答えると、「ふ~ん。。。」との返事。この「ふ~ん。。。」の丸三つのあたりには、女性特有の含みがありそうだが、そこは追求せず目線を画面に戻していると、矢継ぎ早に次の質問が。

「この人、何?」

 これはまたシュールな質問である。「何?」って、まさか「人間」とか「妖怪」とかいう答えを期待しているのでもなさそうだし...返答に窮しているのを察した彼女は、「この人、女優?」と言い換えた。

 そりゃあ、女優さんでしょう。しかも大女優まっしぐらの。「軍師官兵衛」での官兵衛の妻役もさすがだったし、「白洲次郎」での白洲正子役もよかったよね。最近は舞台も色々やってるみたいだし、そういえば何故かDVDを持ってる主演映画の「嫌われ松子の一生」だって...なんでそんな当たり前なこと聞くの?

 要するに彼女は、かなり昔から見ている人だけど、もともと女優さんだったんだっけ、と聞きたかったようだ。

 まあ、昔から女優だったと思うけど......と、ここでピキピキと記憶の殻が破れて思い出してきた。すっかり忘れていたけど、そういえば、初期の一時期、中谷美紀は本格的に歌っていた。しかも、全面的にあの坂本龍一がバックアップ、プロデュースをしていて、いい感じで結構好きだったな。

「歌う女優って、柴咲コウみたいな?」

 う~ん、ちょっと違う気もするけど。あの曲、覚えてないかな。きっと知ってると思うけど、と、日頃使い慣れていないテレビに搭載されているインターネット接続機能を使って、YouTubeで検索。そうそうこれこれ、と中谷美紀の歌う「砂の果実」のPVを大画面に映し出した。

  ☆ Link:砂の果実 / 中谷美紀 (PV)

 二十歳の中谷美紀は、さすがに初々しく、とても印象的なPVだ。曲も大好きだが、その言葉の醸し出す雰囲気もまたいい。あんな風に、「あの頃の僕らが嘲笑って軽蔑した 空っぽの大人に気づけばなっていたよ」、なんて歌われると、思わず反省してしまいそうだ。

 この曲は、坂本龍一のプロデュースによる3枚目のシングルで、彼女の曲としては最も売れたのではないかと思う。クレジットは「中谷美紀 with 坂本龍一」とあって、異例の扱いだった。しかしそれに反して、曲のリリース自体は肩すかし的だった。

 

 この曲の原曲は、僕自身はほとんど観てなかったのだが、「ストーカー 逃げきれぬ愛」というテレビドラマの主題歌として登場した「The Other Side of Love」だ。英語歌詞の曲であり、その曲はドラマがスタートしてすぐ、先行して発売されていた。クレジットは「坂本龍一 featuring Sister M」。曲やアレンジは教授だとしても、歌詞は誰が書いたのか、Sister Mとは一体誰なのか全く明かされず、楽曲の良さ、ドラマとのマッチングに神秘性も加わって、70万枚を超える大ヒットとなった。

 当時僕は、そもそもあまり関わりがあるとは思えないテレビドラマの曲を、唐突に坂本龍一が担当したことに驚いたが、そのドラマが終わる頃、前述の中谷美紀の日本語歌詞による「砂の果実」が後付けのように発売されたことにも、さらに驚いたものだ。あるいは、明かされていない「Sister M」は中谷美紀のことで、単にその日本語バージョンが出たのか、とも思ったのだが、そもそも女優に軸足がある彼女を、自ら出演していないドラマの主題歌に起用するものなのか、という疑問も持った。よく聴けば、似てはいるものの声質も違うし、考えれば考えるほど不思議な状況だった。

 そのとき僕が思ったことは、ひょっとしたらこのドラマは、最初は中谷美紀が主演の予定だったのではないか、ということだった。そうだとすれば、主題歌を歌うだろう中谷のために、坂本龍一が書き下ろすのは自然である。ところが、何らかの事情で主演が交代、主題歌だけが残ったが、それだけを彼女に歌わせることは忍びなく、急遽英語歌詞に変更して歌い手を差し替えた・・・・・・そうだとすれば全て辻褄が合うんだけど。違うかな。ちなみにこのドラマは、その鬼気迫るストーカーの演技で俳優の渡部篤郎が注目され始めた作品で、その後すぐに中谷美紀との共演が準備されたこととも、ひょっとしたら関係しているのかも知れない。

 しばらくして、坂本龍一の後日談として、「The Other Side of love」は中谷のために書き下ろした曲だったが、当時素人っぽい謎めいたアーティストを探していたとき、たまたま16歳になる自分の娘に歌わせてみたらイメージとピッタリ合ったのでそのまま採用した、ということを漏れ聞いた。即ちこの曲は、期せずして坂本美雨のデビュー曲となったのである。

 当時は世界で活躍していた坂本龍一が、YMOの再結成を機に、軸足を少し日本寄りに移していた時期とも重なっている。フォーライフレコードと契約して新レーベルを立上げ、自身、アルバムも精力的に発表していた。さらに大貫妙子今井美樹のプロデュースにも精を出していたが、なかなかヒットに結びつかない。そもそも、自分自身に忠実な芸術家であり、スタジオワークでは、どちらかと言えば職人的な坂本龍一に、大衆に媚びたヒット作を生むことができるのかは疑問だった。

 ちまたでは小室哲哉小林武史が、原石から育て上げるプロデュースや自ら率いるグループで大成功していて、特にまだ売れていない頃から交流があり、よく自身の音楽にも起用していた小林武史への対抗心は大きかったのではないか。そう思えば、坂本が探していた声の雛形は、ひょっとしたら小林武史によるMy Little LoverAkkoの声のように、もう少しポップでイノセントな声だったのかな、とも思ったが、やはり教授の音楽に、そこまでの「俗」を持ち込むのは難しかった、ということなのだろう。

 

 いずれにしても、飽きっぽい教授としては珍しく、中谷美紀の約5年間続いた音楽活動には、最初から最後まで深く関わった。時に二人で登場し、共演することもあったりして、それなりに楽しませてもらった。そして、日本のPOPS界に対する教授自身の熱が、急速に冷めていくのに同期して、中谷の音楽活動も下火になり、自然消滅したように思える。それ以降、彼女は歌っていない。

 この曲を今、改めて聴きなおしても古さを感じない。坂本龍一の音楽が持つ独特の気品と情感がしっかりと詰まっている。それでいてシンプル。中毒性もある。

 そんなことを思いながら、ずっと聴きなおしているうちに、耳鳴りミュージック・第1号が発生してしまった、というわけだ。

 ここまで聴いて、いかがでしたか? ぜひ、ご注意を。

 

<おまけ>

 まだまだ耳鳴りなんて程遠いという方には、とっておきの、この曲の最近のカバーもつけておきます。m-floによるカバーです。ぜひどうぞ。

 

 

<関連アルバム>

cure

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未来は明るいですか?

 ふわふわした、何だか落ち着かない新年だった。少しはそれらしくしようと飾りつけもして、久々に家族が一同に会しても、新年らしさは年々薄まるばかりだ。かつてのような特別な感覚に満たされることは、もう無いのかもしれない。さびしいことだけど...

 元日、浅い眠りから目覚めたまだ暗い朝、今年最初に選んだ音楽はJanis Crunch & haruka nakamura のアルバム 『12 & 1 SONG』 だった。エアコンからの暖気が冷えきった部屋に少しずつ拡がる中、1曲目のピアノ・ソロ「Solitude」は、心地よく体に馴染んだ。

 このアルバムは、独特な清新さが魅力的なボーカリストでピアニストのJanis Crunchが、エレクトロニカアンビエントの分野でどこか懐かい静かな世界を常に聴かせてくれるharuka nakamura と、「冬の世界」をテーマに共同制作した楽曲をコレクションしたものだ。発売は2011年12月なので震災への思いもあったのではないかと思うが、一昨年入手して以来、時に無性に聴きたくなる。

 まだ目覚めきっていない体とその日の気分に、2曲目の「winter of Henry」や4曲目の「Nuit」で響くジャニスの声がぴったりきていた。その世界は全くお正月らしくない世界だが、そもそも僕自身が、元日の朝にこの「らしくない」音楽を求める心境にあったということなのだろう。

 数日前から元日は雪の予報だったし、寒い朝だったので外は雪でも降っているのだろうと勝手に思いこんでいたが、7曲目の「カノン」を聴きながら、それまで締めきっていたカーテンを開けてみて驚いた。東の空の稜線は明るく、空は晴れていた。今年も思いがけず、初日の出が拝めそうだった。

 日の上る気配を感じ、祈りにも近い気持ちを抱きながら、10曲目の「insincere love」に耳を傾けた。昨年以来、いろいろうまくいかなかったことが、今年は少しでも良くなるように...そんな気持ちだったのかもしれない。

 その後、家族も揃ってお正月を迎え、ゆっくりした時間を過ごしているうちに空は一変していたようだ。次に外を眺めたときには、一面銀世界に変わっていて、なんだかその潔いまでの急変に、いっそ晴れやかな気分になった。

 

 それから1週間、年明けから随分時間がたったこの土曜日、所用で出かけていたディアモール大阪の円形広場に奇妙な自販機が設置されているのに気づいた。未来自販機というらしい。飲み物の自販機のようで、種類は「あっかる~い」と「くらーい」の2種類のみ。お金の投入口も返却口もある普通の自販機だ。まだ周辺にはロープが張られていて近寄れない状態だったが、不思議な光景だった。

図1-150112

 一体何の自販機なんだろう。飲み物であることは確かなようだが、あまりにも説明が無い。思わずi-phoneでパチリと一枚撮影したあと目的の場所を目指した。所用をすませ、再びその場所を通ったとき、自販機の前に短い列ができているのに気づいた。列の最後尾では、係りの人が小さなチラシを手渡している。先ほどの疑問が解けるかもしれないと僕も並んでみた。手渡されたチラシには、「未来について、最後に考えたのはいつですか?」とある。

 うーん、難しい質問だ。何が難しいかって、そもそも「未来」という言葉の解釈が難しい。自分や家族の「将来」については、しょっちゅう考えているような気もするけど、「未来」と言われると少しニュアンスが異なる。「未来」はどちらかと言えば時間の経過を表す概念的な言葉で、個人を指し示している感覚が薄い。あまり細かいことは考えず、僕自身は漠然と、世の中のことを聞いているのだろうかと、そのときは思った。

 チラシの裏面には、「未来自販機の味わい方」が載っている。「あなたにとって「未来」のイメージは?」とあって、「あっかる~い」か「くらーい」をチョイスして、ドリンクを味わってみてください、とある。ちょうど説明文を読み終わった頃に、自販機の前に到着。お金を入れる必要は無いらしいが、いざボタンを押す段階で、しばし迷った。そして押したのは「くらーい」ボタン。「あっかる~い」が、普通に「あかるい」だったらそちらにしたかもしれないが、「あっかる~い」感じの未来ってのは無いなと、直感的に思ったのだ。あるいはここ数日報道されていたパリのテロ事件の影響も微妙にあったかもしれない。缶飲料はウーロン茶のようだったが、その場では味わわずコートのポケットに入れ持ち帰った。

図2-150112

 どうもこのイベント、生命保険会社のキャンペーンのようだったが、持ち帰った「くらーい」缶飲料は、家族にすこぶる不評だった。「何故くらーいのを持って帰ってくるのか」と非難轟々。あの~、おみくじと勘違いしてませんか?と言っても納まらない。自分で、あっかる~い未来を放棄したのだと言わんばかりだ。だって、今の世の中、くらーいでしょ?未来もどちらかと言えば...と言いながらも、自分でも「くらーい未来」を飲む気になれず、気分も沈みがちに...

 その翌日の日曜日、別件で再び梅田に出たのであの場所に行ってみると、その日も同様に自販機前に人の列が...思わず並んで、迷わず「あっかる~い未来」を選んだのでした!やっぱり、あっかる~い未来は、自らの手で掴み取らないとね、なんて言いわけをしながらね。

図3-150112

 ところで、「あっかる~い未来」と「くらーい未来」の味はどうだったか。どちらも紛れも無くウーロン茶だったけど、幾分「くらーい未来」の方が苦かったような...気のせいかな。

 何はともあれ、お読みいただいた皆様の「明るい未来」をお祈りいたしております。最近は少々ご無沙汰気味になっていて新年のご挨拶も遅くなってしまいましたが、本年もよろしくお願いいたします。

 

<追記>

 自販機の横には電光掲示板があり、それまでに何人の人が「あっかる~い」を選んだか、「くらーい」を選んだかが記されていました。僕が二日目に見た時は「あっかる~い」が75%でした。それが一番、明るいことだったかな。(初日は9割くらいあったような気もするんだけど。。。)

 

 

<関連アルバム>

 

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ストックホルムでワルツを

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 先週の日曜日、公開を待ちわびていた映画、「ストックホルムでワルツを」を観に行った。原題は「Monica Z」。スウェーデンの歌手、モニカ・ゼタールンドの半生を描いた映画で、僕はそのことを数ヶ月前に音楽情報誌で知った。

 モニカ・ゼタールンド・・・懐かしい名前に出会った気がした。まだジャズを聴き始めてどれほども経っていない頃、恐らく僕が初めて購入したジャズ・シンガーのCDが彼女のアルバム 『ワルツ・フォー・デビイ』 だった。初めてなら、そんなマイナーな人じゃなくて、もっとビッグネームがたくさんいるだろう、なんて思われるかもしれないが、僕のジャズへの嗜好はまだまだそこまで拡がっておらず、誰がその「ビッグネーム」にあたるのかさえ、わからなかった。聴いていたアルバムは、もっぱら数名のジャズピアニストのリーダー作ばかり。そこから始まって共演者への興味が少しずつふくらみ始めた頃だった。

 このアルバムのタイトル曲である「ワルツ・フォー・デビイ」は、ピアニスト、ビル・エヴァンスの作で、まだ幼い姪のデビイに贈った美しい曲だ。僕自身は輸入CDで入手した1956年のビルの初リーダー作 『New Jazz Conceptions』 で初めてこの曲を聴いたが、そこでのこの曲はピアノソロによる愛らしい小品で、デビュー作にして既にその後の世界を体現できる叙情的な演奏だった。

 この曲を一躍有名にしたのは、そのデビューから5年後にリリースされたビル・エヴァンス・トリオがヴィレッジ・ヴァンガードで行ったライブを収録したアルバム 『ワルツ・フォー・デビイ』 だ。盟友だったベーシスト、スコット・ラファロが不運にも交通事故で亡くなる11日前のライブで、生前最後の公式録音だった。今でも、モダンジャズの名盤といえば、必ず挙げられるアルバムだが、実のところ、同日録音のアルバム 『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』 と合わせて、スコット・ラファロの追悼盤として発売された感が強い。そう思って聴いてみると、聴衆の熱気も薄く、ざわめきや食器の発する雑音も随所に含まれていて、名盤にふさわしい雰囲気とはとても言えない。よく聴けば、恐らくマスターテープに含まれているノイズも多いのだが、それでもなお、ひときわ輝いている理由は、ドラムスのポール・モチアンを含めた3人のインタープレイの完成度の高さと、その後のビルの愛奏曲がたくさん含まれていることにあるのだろう。

 スウェーデンの歌姫モニカがこの「ワルツ・フォー・デビイ」をカバーしたアルバム。それだけでは当時の僕には何も引っかからなかったに違いない。ジャズのボーカルアルバムには全く興味がなかった僕が、それでも聴いてみたいと思った理由は、一にも二にも、アルバム丸ごと、バックをつとめるのが、絶頂期のビル・エヴァンス・トリオだったことだ。

 ビル・エヴァンスの演奏するボーカルアルバムは極端に少ない。ビッグネームになって以降では、男性では大御所トニー・ベネット、女性ではモニカだけだと思う。トニー・ベネットはある意味納得がいくとしても、恐らく当時ジャズ界でも全く無名だったスウェーデンに住む歌手が、スウェーデン語で歌うジャズをビル・エヴァンスの演奏で録音するというのは、その時点では一つの事件だっただろう。しかもビルの同名アルバムのリリースから、たかだか3年後のことである。

 実は、その答えに至る挿話が、映画「ストックホルムでワルツを」のクライマックスを担っている。何故、当時無名のモニカがビル・エヴァンスと競演できたのか、何故彼女はスウェーデン語で歌っているのか。何故彼女が、ジャズの本場で聴衆の心を掴めたのか。そして、今や小さな音楽大国となったスウェーデンで、その先駆者とも言える彼女が、今でも人気がある理由を感じることができるのだ。

 

 

 物語は、スウェーデンの小さな田舎町、ハーグフォッシュで始まる。離婚をして5歳になる娘を連れ親元に戻っていたモニカは、電話交換手として働きながらもジャズ歌手になる夢を捨てきれない。時折、子供を両親にまかせて巡業に出る娘のことを、父親は快く思わず衝突を繰り返す。そういう日々の中で、ニューヨークでライブをやってみないか、という願ってもないチャンスが舞い込むのだが、そこには厳しい現実と挫折が待っていた。

 失意の中、帰国した彼女は、元の生活の中で、スウェーデン語でジャズを歌うことを思いつく。その流れが、たくさんの人との出会いをつくり、スターへの階段を上り始める。しかし順調に見えていた仕事にも大きな躓きがあり、パートナーとの関係の破綻、さらには子供への思いと父親との確執が加わり、酒に溺れ、破滅へと突き進む。

 愛と苦悩の果てに底まで墜ちた彼女は、もう一度ジャズ歌手の原点に戻ろうと決意する。自分はいったい何を歌いたいのか。その答えを見出した彼女は、自宅に録音機を持ち込み、ひとりマイクに向かって歌い始める...

 実在のミュージシャンも風貌の似た人を使ってたくさん出てくる。最初のニューヨークライブでは当時のトミー・フラナガン・トリオと競演しているが、ジャズの草創期、人種差別がどうであったのかが、よくわかる展開だった。そのときモニカに決定的なダメ出しをするのは、たまたまパブで出会ったエラ・フィッツジェラルドであり、そのモニカを打ちのめしたキツイ言葉が、実はその後の彼女の成功のヒントになるのだ。

 しかし何と言ってもこの映画は、主役を務めるエッダ・マグナソンが光っている。モニカの風貌、雰囲気、音楽性をよく表していていた。実は彼女自身、作曲もしピアノも弾くジャズシンガーで、アルバムも出しているらしい。本作が映画初出演ということだが、とてもそうとは思えない堂に入った演技だった。

 ストーリーは実在の人物の10年ほどの物語なので、ひねりの少ないハッピーエンドで締めていて、少しもの足りなくもない。しかし、実際のモニカの人生は、さらに波乱万丈だったようだ。結局は映画でハッピーエンドの相手とも破局をむかえ、その後の男性遍歴もすごかったらしい。今でも活躍しているジャズマンの名前も並んでいたりする。そんな彼女も脊柱側彎症のため1997年に引退し、その後は車椅子生活だったと聞く。そして2005年、ストックホルムの自宅で発生した火災に巻き込まれ、67歳で亡くなった。

 彼女の功績は、人口が1,000万人にも満たないスウェーデンの国民に自信を与えたことなのだろう。その後多くのジャズマンがストックホルムを訪れ、スタン・ゲッツドン・チェリーのように移住してしまうミュージシャンまで出た。今や、スウェーデンといえば、北欧ジャズの基点になっているし、その自信はポップスやロックの世界にも波及し、アバやロクセットのような世界的なトップ・グループやトップ・アーティストも出るようになる。その先駆者がモニカだったと言っても過言ではない。それが国民的歌手として、今でも愛され続けている所以なのだろう。

 この時期、ノーベル賞で賑わうストックホルムの街並みは、テレビでも露出が多くなる。あー、ストックホルムでジャズ。いいなあと、つい思ってしまう。

 次はここかな?

 

<おまけ>

 もちろん、サントラ盤も購入しました。いいです。

 その中の一曲目、映画でも印象的に歌われているスタンダードナンバーの”歩いて帰ろう”は、モニカが1961年、詩人ベッペのつくったスウェーデン語の歌詞で歌った、初のヒットナンバーです。ウォーキング・ベースで始まるアレンジのエピソードも、本編にはあります。その歌いっぷりは、ひょっとしてモニカを越えているかも...

 

 

<関連アルバム>

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ラストダンス

 キース・ジャレットチャーリー・ヘイデンの新作デュオアルバム 『Last Dance』 を店頭で目にしたのは、確か6月の終わり頃だった。日本語に訳せば、単に「最後のダンス」なのだが、このアルバムタイトルに少し引っかかるものを感じて、ジャケットに記された曲名を確認した。

 全9曲の中にタイトルと同名の曲があるわけではない。しかし最後の3曲を見て、はっとした。7曲目が「Where can I go without you (君なしでどこへ行けと言うの)」、8曲目が「Every time we say goodbye(いつもお別れを言うたびに)」、そして最後の曲が、ずばり、「Goodbye」だったのだ。二人の前作、『Jasmine』 は大好きなアルバムだったし、それと同様のラブソング集だったのですぐに購入を決めたのだが、それにしてもあまりに意図的な選曲に、もしかして...と思いつつも、二人ともここ数年、精力的に新譜をリリースしていたので、そんなはずない...と、すぐに打ち消した。

 

 ベーシスト、チャーリー・ヘイデンサウンドは、学生時代、友人に録音させてもらい何度も聴いたキース・ジャレットのアルバム 『生と死の幻想』 で、知らぬ間に僕の中での「ウッドベースの音」になっていた。その音がチャーリー本人と結びついたのは、社会人になった頃LPレコードで入手した、キースの初期のトリオアルバム 『流星』 の裏ジャケットにあった、若き日の黒縁眼鏡をかけたスナップ写真を見たときからである。二人は、キースのデビュー当時から、約10年に渡って共に活動していたのだ。

図1

 『Last Dance』 の入手後、その演奏は新たなセッションではなく、前作 『Jasmine』 と同じときのものだと知った。2007年にキースがヘイデン夫妻を自宅に招いて、実に30年ぶりに自宅スタジオで数日間演奏・録音した楽曲の中から、2枚目のアルバム用にセレクトしたものだったのだ。『Jasmine』 ではライナーノーツをキース自身が書いていたが、その内容からは、このときの録音が決して決められたアルバムのためのものではなく、パーソナルなものだったことがわかる。親密な雰囲気の中で繰り広げられるゆったりとしたラブソングの演奏は、キースが慢性疲労症候群から立ち直った直後の名作 『The Melody At Night, With You』 の音楽と重なる。結果的には2010年に 『Jasmine』 として日の目を見たわけだが、『Last Dance』 はその続編だったのだ。

 

 そして数週間後、朝刊に掲載されたチャーリー・ヘイデンの訃報と唐突に対面することになる。社会面にぽつんと置かれたその記事を目にした瞬間、「杞憂ではなかったんだ」という思いとともに、彼の深みのあるベースサウンドが耳の奥で鳴り始め、次第に心臓の鼓動と重なっていった。

 その後、報道で、彼が長年ポストポリオ症候群で苦しんでいたことを知った。最近までその名前が表に出ていたので錯覚していたが、実はリアルタイムの演奏としては、2010年に録音されたものが最後だったようである。

 もちろんアルバム 『Last Dance』 は、チャーリー・ヘイデンの生前に準備されリリースされたものだ。そう考えれば、その中にある「Goodbye」はチャーリーの言葉であり、『Last Dance』 は、チャーリーの思いの入ったタイトルだと考えるのが自然だろう。当初はキースの優しさが現れたものかとも思ったが、よくよく考えれば、まだ亡くなる前にそうしたことができるのは、本人以外には考えられない。

 

 モダンジャズ、フリージャズ、フュージョン、カントリーなど、様々なジャンルで活躍した彼だが、その音色はいつも変わらない。低域のしっかりとしたあたたかな音で、常にピタリと音楽に寄り添っている。時に歌心溢れる旋律を奏でたり、アグレッシブな側面を見せたりもするが、脇に回れば決して出しゃばらず、しっかりと支える。様々な編成で演奏してきた彼だが、そんな性質がデュオの演奏に向いていたのだろう。彼は本当に多くのデュオ作品を残してきた。デュオ相手の演奏楽器も様々で、ピアノ以外でも、ギタリスト、パット・メセニーとのデュオ盤 『ミズーリの空高く』 のような素晴らしいアルバムももちろんあるが、やはりピアノとのデュオが最も多かったのではないだろうか。その中の印象的なアルバムをいくつか挙げてみたい。

 まずはケニー・バロンとの1996年のアルバム 『Night and The City』 だ。これはニューヨークのジャズクラブ・イリジウムでのライブ盤で、その中でのチャーリーは、軽快で活発。ソロもウォーキング・ベースも躍動的で、都会の一角で楽しんで演奏している姿がうかがえる。

  ピアノの詩人とも呼ばれるイギリスのジョン・テイラーとの2003年のアルバム 『Nightfall』 は、ピリッとした空気の中で、静けさすら感じられるような演奏だ。そこで発せられる一音一音には細やかな神経が行き届いている。

 ハンク・ジョーンズとの1994年のアルバム 『Steal Away』 は、アメリカン・ルーツ・ミュージックにこだわったアルバムであり、これがチャーリー・ヘイデンの音楽の原点なのだろう。賛美歌や黒人霊歌、伝統音楽を訥々と演奏する二人の魂の交流には、彼の精神を支えてきた音楽世界を感じることができる。

 

 『Last Dance』 に戻ろう。このタイトルに引っかかったのには理由がある。フォーマルなダンスパーティーでは、パートナーと最初の曲を踊ったあと、自由に相手を変えることができる。しかしラストダンスでは、また本命のパートナーに戻るのだ。「ラストダンスは私に(Save the last dance for me)」という有名な曲があるが、最後の曲は本命にとっておく。そんな思いがこのタイトルには表れているような気がする。

 では最初のデュオは?そういう疑問が浮かんできた。実はその答えに、最近チャーリー・ヘイデンの追悼再発盤が色々出ている中で出会った。1976年にリリースされた 『Closeness』 である。このアルバムは初めての個人名義でのアルバムで、4人のミュージシャンとそれぞれデュエットで自作曲4曲を演奏したものだ。その中にキースとのデュエット曲「Ellen David」も入っている。「Ellen David」とは、当時のチャーリーの奥さんの名前であり、彼女のためにチャーリー自身が作曲したとても美しい曲だ。その名曲を当時のややアグレッシブなスタイルで演奏しているのだが、この演奏こそが彼にとってのデュオの原点だったのではないだろうか。最初の相手と30年の時を経てのラストダンス。それは形として表したチャーリー・ヘイデンの思いだったに違いない。

 ちなみに、この時キースと演奏した「Ellen David」は、紛れもなく、ジョン・テイラーとのアルバムのタイトルにもなっている「Nightfall」と同一の曲だったことに驚いた。30年前のキースとの演奏の後、チャーリー・ヘイデンはエレンと離婚し、その後彼の音楽を支え続けてきた、自身シンガーのルース・キャメロンと再婚。そこから既に30年近く経っている。そういう中で先妻の名前のついた曲を改名したのだろうが、ここはやはり本命が変わったということなのだろう。ラストダンスの相手が変わってしまう場合だって時にはあるのだ。

 では、奥様であるルース・キャメロンに捧げる曲は、というと・・・もちろんある。ケニー・バロンやパットメセニーとのデュオ盤でも披露した「Waltz For Ruth」だ。性懲りもなく、なんて、つい口に出そうになるが、もう2度と改名する事態には陥らないと心に決めていたのだろう。きっと彼は、ロマンティストだったに違いない。

 

 長年の闘病生活の末、チャーリー・ヘイデンは7月11日、ロスアンゼルスで家族に見守られながら亡くなったと聞く。享年76。キース・ジャレットのコメントはまだ見ていないが、そのことを亡くなるまで微塵も見せなかったチャーリーの精神力と奥様の献身に、ただただ敬意を表したい。

 

<追記>

 最後まで見守られた奥様のルース・キャメロンは、チャーリーと共同プロデュースをしながら、ずっと彼の音楽を支えてきました。最後の録音盤である2010年の 『Sophisticated Ladies』 では、チャーリー率いるカルテット・ウェストの演奏に乗せて、彼女自身も歌っています。そのほかにフィーチャーしたシンガーは、メロディ・ガルドー、ノラ・ジョーンズカサンドラ・ウィルソンダイアナ・クラールと、それはそれは豪華でした。最後のアルバムがこれほど豪華というのは、ちょっとチャーリーに似合わないようにも思えますが、それもルース・キャメロンの手腕とチャーリー・ヘイデンの人柄ゆえだったのでしょうね。

 そうそう、このアルバムにも『Last Dance』の最後を飾った曲「Goodbye」が入っています。歌うのは、ダイアナ・クラール。この演奏こそが、チャーリー・ヘイデンの最後の「Goodbye」なのだろうと思います。

 

 

<関連アルバム>

NIGHTFALL
STEAL AWAY

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