Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

酒とバラ(?)の日々

 最近の本格焼酎(乙種焼酎)の、ブームを超えた拡がりには、ただただ驚くばかりだ。今でこそ、ここ大阪でも芋焼酎麦焼酎なんてめずらしくはないが、バブル華やかなりし頃、それを飲むことのできるお店を探すのは一苦労だった。条件は、芋か麦の焼酎が常備されていることとお湯割りが出せること。焼酎が一升瓶でキープできて、お湯割り用のポットがあればなおいい。当時関西在住の学生時代の仲間の集まりで、特に2次会においては欠かせない条件だった。僕たちは、阪急梅田駅の横にある、D.D.House内の「やぐら茶屋」がその条件を満たしていることをつきとめ、2次会をそこですることを前提に、毎回その周辺で1次会の場所を探した。

 そうした嗜好は福岡での学生時代に培われたものだ。入学して数日後には焼酎のお湯割りの洗礼を受けた。ほとんど2、3杯で記憶が途切れている。いま考えれば、飲酒経験もほとんど無い、まだ10代(いいのでしょうか?)の若者が飲むものではない。独特の香りと、アルコールが全身に回ることを助長するお湯割りの効果。勧められれば断れない、体育会系のようなノリ。最初はそのにおいが鼻につき苦しかったが、これが少しずつ慣れてくると、離れられなくなるから不思議だ。二日酔いがほとんど無いことも、やみつきになっていく要因だったのかもしれない。

 この焼酎に欠かせないのが豚バラの串焼き(もちろん塩)だ。福岡の焼き鳥屋や炉辺焼き屋では、「バラ」は焼き鳥の最前列に必ず並んでいる(鳥じゃないのだけど...)。カウンターやテーブルには、どんぶりに無造作にキャベツのざく切りが積まれ、横に酢醤油入りの醤油差しが置かれている。僕たちは、お店に入ると、芋焼酎(白波や霧島)のキープ(一升瓶)を取ってもらい、コップにそれぞれ半分ほど焼酎を注いでお湯割りを作る。小皿にキャベツを取って酢醤油をかけて、肴にする。ここまではキープさえあればタダだ。

 そして、注文していた豚バラが出てきて、2杯、3杯と重ねてゆく。一升瓶のキープが1200円ほど、バラが一本50円程度だったと記憶しているが、最初の1,2年は、あまり支払った覚えが無い。先輩たちのおごりなのだ。その分、上級生は大変になるのだが、それでもたいした金額にはならない。一升瓶でお湯割りにすると約20杯作ることができ、夕食代わりに飲みにいける程度だった。おかげで「酒の一滴、血の一滴」を合言葉に、貧乏学生たちは夜な夜な、飲み屋に集った。あの4年間で一生分のお酒を飲んでしまった、と思えるほどだ。

 ちなみにビールを飲むことは、何かあったときの乾杯だけ。後はすぐに焼酎だった。ビールのような高級酒は、平時は許されなかったのだ。おかげで、ビールは貴重品でうまい!という刷り込みが入り、社会人になってからはビール党。焼酎を飲み始めると、途中でストップが利かなくなるので、普段はもっぱらビールばかり飲んでいる。

 しかし、そんな風に飲んでいると、酔いつぶれるのは日常茶飯事だ。社会に出てから大きく違ったのは、この「酔いつぶれる」事に対する目で、社会人でのそれは、「だらしなさ」につながる、やってはならない行為だ。周りの風当たりもキツく、基本は最後まで自己責任で対処することが当たり前、という世界である。

 学生時代は、つぶれそうな後輩・イコール「かわいいやつ」だった。僕たちは、時に「後一杯飲むとヤバイかも」と自覚しながら飲んでいた。即効性のある焼酎を飲みつけると、自分のペースはわかってくる。その境目をいつも彷徨いながら楽しんだ。酔いつぶれた人は、必ず責任を持って誰かがつれて帰ってくれる。社会に出てからとは違い、仲間への愛情は深かった。僕はいよいよだめ、となると「●●さん、あとはよろしく!」と言いながら、最後の一杯をあおり、別の世界に飛んでいった。

 でも、「そんなに酒が好きだったのか?」と聞かれると、NOなのだろう。僕たちはそこで酒を飲みながら交わす会話やその場の雰囲気が好きだったのだろう。そこでの話は、今思えばすごく真剣なものが多かった気もするし、馬鹿みたいなことで大騒ぎをしていたことも、たくさんあったように思う。ただ、そこで杯を重ねた多くの友人・先輩・後輩たちとの垣根を、酒は一気に取り払ってくれていた。僕たちにとっては、酒は、愛すべき相棒のようなものだったのだろう。

 

 さて、今日の一枚。酩酊して、真夜中にアパートの部屋に戻り、まずはアンプのスイッチを入れる。そのとき聴きたい曲があれば、それを流すのだが、特に何も無いとき、4年間を通じて最もよく流したのがこの一枚。キース・ジャレットの 『ケルン・コンサート』 だ。 

 言わずと知れた、キースのピアノ・ソロ。彼のピアノでの即興演奏は数多く出ているが、その頂点の一枚だと思う。このアルバムは、福岡に来て数日後、ジャズ好きの友人に薦められ初めて買った一枚だ。ただし、僕の中では、ジャズのアルバムという意識は全く無しで購入して聴いていた。即興演奏といいながら、そこから流れる音楽は、まるで事前に構想され、楽譜に書かれていたかのような必然を感じる。次々に湧き上がる音の流れは、口ずさめるほどにメロディックで、後に日本人の手により、全曲を楽譜に起こしたものが出版されて話題になったが、それほどに完成されたものだ。

 天井のたわんだ安アパートで横になり、全身の酔いに任せてこの音楽を何度聴いたことだろう。躍動感溢れる音の流れと、その隙間隙間からこぼれる静寂感。それらの音の波に漂いながら、アルコールでふやけた細胞に、透明度の高い音の振動が粒子となって溶け込み、僕は全身で自由と希望を感じていた。静かに浸潤するものたちと、それに呼応する意識の中で僕は、まだ見ぬ未来がどこかに拡がりつつあることを、確かに感じていたのだ。

 今も時々、CDで買いなおしたこのアルバムをかける。今は、酩酊して聴くことはない。それを差し引いたとして、果たしてあの頃と同じように聴けているのだろうか、と自分に問いかけてみる。その意識を、再度前方のスピーカーに戻せば、当時とは比べるべくもない部屋の中に、変わらない音の流れが漂っている。躍動する音と、こぼれる静寂感。やはり足りないのは...

 もうすぐゴールデンウイーク。さて、久々に「酒とバラの日々」をやってみることにしようか...

 

 *** おそらくアンコールの一曲、PartⅡ c を、ぜひ。

 

 

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