Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

ベネチアの小泉今日子

 最近、ベッドに横になるとそのまま眠ってしまうパターンが続いているのだが、普段は枕元に、一編ごとが短めのエッセイ集を用意していて、少し余裕があるときはベッドの上で毎晩少しずつ読んで眠るようにしている。この眠る前に読もうと思うか思わないかが、自分の心理状態、余裕度のひとつのバロメーターにもなっている。

 この秋口は、村上春樹の新刊エッセイ集「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」が枕元にあった。これは、女性雑誌「anan」に再連載されたエッセイをまとめたもので、10年前の同誌への連載をまとめた「村上ラヂオ」の続編にあたる。

 彼のエッセイは小説とは趣が異なり、とても素直で正直で、本当の村上春樹を随所に感じることができ、僕は大好きなのだが、このエッセイ集の特に前半は、なんだか文章に戸惑いのようなものを感じ、少しいつもと違う感触だった。彼自身はエッセイの中で、「anan」の読者に当たる20歳代の女性が周りにおらず、読者想定をするにも訳が分からない状態だということで、最初から読者の設定を放棄している、と書いてはいるが...いやいや、話題の選び方や話のもって行き方、いつもよりゆるめの語り口。僕には十分、少し加減しながら文章を書いている彼の姿が見えるようだった。しかし読み進めると、少しずついつものペースになってきて、いよいよ残念なことに最後の一編となってしまった。明日は別の本を用意しなくちゃ、と思いながら読んだ最後の文章のタイトルは「ベネチア小泉今日子」。僕は迷わずこの一編を、本作のベストエッセイに選ぶだろう。

 

 話は変わるが、4年ほど前に「大阪ブルーノート」をリニューアルして作られた「ビルボードライブ大阪」は、300人ほどが収容できる食事やお酒も供するライブハウスで、梅田・ハービスエントの地下にある。ブルーノート時代から、主にジャズの大御所の演奏を時々聴きに行っていたのだが、今年の5月、行こうかどうしようか最後まで迷ったライブがあった。結局仕事のこともあり見送ったのだが、そのライブの主が、誰あろう、小泉今日子だった。

 アイドル時代の小泉今日子のファンだったのかというと、まったく。まず世代が違う。えー? 年齢は5歳しか違わないの? と調べて驚いたのだが、僕の子供の頃のアイドルは (といっても、そういうのは中学1,2年位までの話ですが)、麻丘めぐみとか、南沙織とか、アグネスチャンとか。せいぜい山口百恵キャンディーズあたりまでだ。ほぼ同世代の松田聖子は音楽だけは耳に入ってきたものの、もうひとつ興味が湧かなかった。ましてやその後のアイドルなんて、まず聴覚世界にも視野の範囲にも入ってこなかった気がする。

 初めて「これが小泉今日子か」と意識したのは、結婚して二人で初めて観に行った映画。イラストレーターの和田誠が監督をしている、ということで観た「怪盗ルビイ」だ。真田広之の“ちょっと弱弱しい”演技と、ただただチャーミングで快活な小泉今日子演じるルビイの織り成す、とても魅力的なコメディーは、今で言えば三谷幸喜の映画のように、粋でおしゃれで楽しい作品だった。

 その後、バブルの頃から少しずつ、僕の関係した音楽の世界でも「KYON2」の文字を見かけ始める。毎月読む「キーボードマガジン」や「サウンド&レコーディングマガジン」に、小泉今日子の楽曲を使ってリミックスをする企画や、当時最先端の音楽クリエーター達が彼女とコラボレーションする企画など、とにかく新しい音楽を探る中に、彼女の名前はよく登場した。玄人受けするのだ。当時の印象は、自分自身を素材として活かしきって、クリエーターたちと一緒に音楽を作り上げていける、恐らく感のいい、頭のいい人なのだろう、といったものだった。

 彼女の歌う音楽を初めてまともに聴き、その演技をみて「この人、残るかもしれないな」と思ったのは、まだ子供が小さくて、夜は少し早めに帰宅していた頃にテレビで見た「愛するということ」というドラマだった。彼女も20歳台の後半、30歳の壁が見え始めていて、もうとても「アイドル」とは呼べない年齢になっていたが、その主題歌の「優しい雨」はドラマの内容とも相まって、とても心に響き、こういう歌を歌う人だったんだ、と少し意識して見始めた。その頃、インタビューを受けるその姿から、この人、年齢に似合わず腹が据わってるなーと感心したこともある。でも、アルバムを買ったり、動向を追ったりという感じでもなかった。なんとなく、なんとなく...そんな感じだった。

 

 4,5年前、エッセイスト・こぐれひでこの「お酒とつまみと友達と」という本で、当時還暦に手が届こうとしていたこぐれひでこの飲み友達として小泉今日子が登場し、なんとも魅力的なやり取りが収録されていた。

 そんなこんなで、2008年に小泉今日子の久々のオリジナルアルバムとしてリリースされ評判の高かった 『Nice Middle』 をついに手に入れた。色々書いてきたが、これが初めて入手した彼女のアルバムで、現時点でオリジナル盤では最新作である。

 中年期に差し掛かった彼女の5年ぶりのこのアルバムは、タイトルもズバリ。彼女自身のプロデュースで、作詞をしている楽曲も多い。しかし...やられました~。その落ち着いた楽曲の中の、変わらない彼女の声は、とても優しく響く。等身大の小泉今日子が笑っている。彼女自身、私生活では色々ありながらも、歌い続けてきた。彼女は彼女の役割を十分に理解し、その上でその音楽を聴く人たちに、色々な思いを分配している。

 その中に一曲ありました。周りの曲に比べれば少し異質ながらも彼女ならではの曲。「小泉今日子はブギウギ」。今この年齢で、曲のタイトルに自分の名前を入れられるシンガーがいるだろうか。それでいて、別に違和感はない。小泉今日子はやはり「アイドル」なのだ。自らを客体化し、役割を自覚し、それでいて好きなことを好きなように実現できるアーティスト。先日、長澤まさみのお母さん役の小泉今日子を見たが、そのこと自体は少しショックながらも、小泉今日子は決して負けていない...目が曇ってたわけじゃないですよ。

 

 さて話を冒頭に戻そう。村上春樹の「ベネチア小泉今日子」にはやられた。最初は、あの村上春樹と邦楽、しかも「小泉今日子」がどうしても結びつかなかったのだが...

 1980年代半ばに彼が何年かローマに住んでいた頃の話。友人だった作家の村上龍が仕事でイタリアに来るということで、日本語の歌のカセットテープを頼んだ。村上龍が色々見繕って持ってきてくれたカセットテープの中に、小泉今日子の 『バラード・クラシックス』 というアルバムがあり、何故かそれを気に入ってよく聴いたという。その頃、村上春樹にとって個人的にとてもつらいことがあり、その少し後にひとりでベネチアを旅行した。その時繰り返し聴いた彼女の声とメロディーは、異国の地で彼を保護してくれていた、とある。そこから発展して、僕たちの人生の中での、音楽の持つ役割の話へと繋げていく。そして彼は、それと同等の機能が小説にも備わっていて、世界のどこかで自分の小説が同様の役割を果たしてくれることを心から望んでいる、と書ききっている。

 僕は、このノーベル文学賞目前の作家の、あまりに真摯な告白に、感動すら覚えた。そして即座に中古CD店を巡って 『バラード・クラシックス』 、ついでに「バラード・クラシックス2」をも手に入れたことは、言うまでもない。 あー、小泉今日子は、永遠のアイドルです!

 

 

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