Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

花のワルツ

 ツツジの季節ももう終わりなのだろうか。いつの間にか、リビングから見えるマンションの中庭に咲くツツジの花も、目立たなくなっている。連休の頃には、鮮やかな濃いピンク色が一帯を染め上げて、この時期ならではの華やかさを感じさせてくれていた。この少し紫がかった濃いピンク色は、そのまま「躑躅色(つつじいろ)」と呼ばれ、日本では古来、衣の色目として人気があったようだ。淡い色合いの桜に続く、日本のこの季節の色だ。

 花の色なんて、若い頃はあまり意識したことはなかったし、花自体に興味もなかったので、恐らく「さて、ツツジはいつ頃咲くのでしょうか?」などと問われても、答えられなかったことだろう。でも、ちょうど13年前の5月を境に、ツツジの花とその色は、僕の意識の中に深く浸潤し、今やこの季節と切り離せないものになっている。

 13年前の5月1日、長らく乳がんを患いながら亡くなった叔母の葬儀があった。連休に入ったばかりで、僕も急遽帰省し、葬儀に参列した。叔母は当時まだ50歳くらいだったと思う。父には5人の男兄弟がいて、父はその長男だったが、亡くなったのは下から2番目にあたる叔父の連れ合いだった。

 僕が小さい頃は仲がよかった父の兄弟だが、祖父母が病気がちになり始めたあたりから色々揉め事もあり、仲違いの絶えない時期が長く続いた。それでも、祖父母も亡くなり、みんなも初老の域に入り始め、少し落ち着いたのかなと感じ始めた頃だった。

 葬儀が終わり出棺。親族は車に分乗して火葬場に向かう。山間の公営墓地の片隅にある小さな火葬場で、その隣にはひっそりと待合所もあった。子供の頃から何度か来た場所だったが、いつ来ても何とも言えない冷たい雰囲気が漂っていた。

 火葬炉は3,4機あっただろうか。そのうちの一つの扉の前での最後のお別れ、そして点火。悲しみは最高潮を迎え、あとは拾骨までの時間を静かに待つことになる。この時間は、持参したお酒などを飲みながらの待機となるのだが、その日は素晴らしい天候で、僕は父や叔父たちとともに、火葬場の外の駐車スペース脇に数台あったベンチに座り、持参したビールを飲みながら、悲しみの余韻が納まるのを待つ体制に入った。

 東京から戻っている一番下の叔父もいて、久々に父の兄弟が5人そろっていた。しばらくはそれぞれに静かな時間が流れていたが、父が、連れ合いを亡くした弟への励ましの言葉で口火を切った後、徐々に会話に全員が参加し始め、和気あいあいとした雰囲気になっていった。そのうち、父の健康談義が始まった。自分がいかに毎日健康に気を使った生活をしているかを語り始め、叔父たちは自分たちも見習わなければいけないと話しながら、時折うまそうにビールを口に運んでは笑顔になっていった。

 ベンチの周辺には、まぶしいほどに赤く色づいたツツジの花が咲きほこっていた。暖かな日差しの中での久々の父たちの談笑。そして晴れ渡った空の下のツツジの花が、こちらの気持ちまで暖かくさせてくれ、悲しい日ではあったが、一方でこういう穏やかな時間が父や叔父たちに戻ってきたことに、少しほっとするような心持ちになった。

 その葬儀から一週間後、今度は父が脳動脈瘤破裂による「くも膜下出血」で急死した。何の前ぶれも無い、突然の死だった。5月10日が葬儀だったが、その日僕は、一週間前を再現したかのような快晴の空の下、その時と同じベンチに腰をかけ、父の火葬の終了を待っていた。手にはビールはない。横には、まだ小さかった子供たちがいた。

 そこに叔父たちがやってきて、黙ってベンチに座った。一人の叔父が、僕と目が合った時、「先週、ここで兄さん、自分は毎日健康に気を付けて生活しているんだと自慢してたのになぁ。」とポツリと言った。「ほんとに...」と僕は頷き、立ち上がって快晴の空を仰いだ。

 しばらくして目を元に戻すと、一週間前と全く変わらない満開のツツジの花が、突然視界に現れたような気がした。ずっと咲いていたはずなのに、その時不意に色彩を感じたのだ。強烈な「つつじ色」だった。しかしそれは、穏やかで暖かな色だった。僕は、先週この場所で見たその花が、今も散ることなく、同じ場所で同じように咲き誇っているにもかかわらず、先週はあんなに元気だった父の姿だけがそこにはないこと、そしてもう一時間もすれば、真っ白な灰になってしまうという理不尽な現実を、その時初めて受け入れたのだと思う。人の命の危うさと尊さが身に染みていた。そしてそこで僕は、時代は変わり、人は入れ替わっても、同じように淡々と流れる時間の無情さをも、感じ始めていたのだろう。

 

 ということで、少し気分を変えて今日の音楽。花の話だったので、やはり花の音楽を聴くことにしよう。チャイコフスキーの「くるみ割り人形組曲」から、「花のワルツ」なんてどうだろう。

 「花のワルツ」はチャイコフスキーの3大バレエの第3作「くるみ割り人形」の音楽のうちの一曲で、その15曲のうち8曲をチャイコフスキー自身が演奏会用として編曲・構成した組曲の終曲に当たり、バレエよりも先に初演された。それはチャイコフスキーの死の前年であり、この曲は、遺作となった第6交響曲「悲愴」の前作にあたる。

 チャイコフスキーの死は「悲愴」の初演9日後の突然の死だったため、その死因をめぐっては諸説入り乱れ、映画にまでなっている。甥との同性愛を音楽界の人々から糾弾されての自殺だったという説は、「悲愴」とのつながりから言っても最もセンセーショナルでありながら納得のいく説だが、実際のところはわからない。ただその死因がどうであっても、チャイコフスキーは当時、厳しい立場にいたことだけは確かだ。

 そんな中で作られた「花のワルツ」は、ワルツを愛した彼の作品の中でも、とびぬけて美しい曲である。花を見たとき、花に囲まれた時のうきうきした気分を感じることができる軽やかなワルツ。一方で、その中に突然現れる、チェロによる悲しい旋律。それはこの曲を一層魅力的なものにしている。そこから感じる、胸の疼きのようなものは、実は花が本来持っている悲しみの源泉なのではないか。花が心を和ませるのは、その裏に花自身が持っている悲しみがあるから・・・僕はこの曲を聴くと、どうしてもそんなことを感じてしまうのだ。

 楽しさと悲しさは表裏一体。それはあの年以降、ゴールデンウィークの頃にツツジを見るといつも感じることだ。しかしその思いの底には、何故かいつも穏やかな気分が流れている。それは微かに鳴り響く通奏低音のように。ひっそりと。確実に。

 

  *** 「花のワルツ」は僕の愛聴盤、小澤征爾の若き日の演奏でぜひどうぞ 

 

 

<関連アルバム>

チャイコフスキー:交響曲第6番

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  • アーティスト:小澤征爾
  • ユニバーサル ミュージック クラシック
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