Jerrio’s Cafe ~ 気がつけば音楽が流れていた

 店主 Jerrio の四方山話と愛聴盤紹介。ジャンルの壁を越え、心に残った音楽について語ります。

フェルメール 秋の夜長に ポール・サイモン

 昨日は、久しぶりに京都に出た。京都市美術館で開催されている「フェルメールからのラブレター展」を観るためだ。

 いつもの同行者 (あ、うちの奥さんです) は午前中、大阪・梅田で所用があり、1時前には終わるとのことだったので、その後京都で落ち合い、遅いお昼を食べてのんびり観にいこう、という話になった。そのほかのことは一切決めず、朝別れたきり、僕は1時半頃京都に着くように、ゆっくり出かけた。後は携帯メールのやり取りで適切な時間に会えるという...なんとも便利な時代になったものである。

 おかげで、お昼は以前から行きたかった鴨川べりの川床のあるイタリアン割烹でセッティングでき、ちょうどこの週末で終わる納涼床納めにも立ち会えた。太陽が降り注ぐ中で、なんとも気持ちのいい季節。秋の入り口を十二分に感じることができて満足、満足...と、時計を見ると3時半が近い。やばい、美術館って早く閉まるよね、融通利かないし...

 ということで、のんびり向かうという当初の計画を急遽変更。お店を出て直ぐ、信号待ちのタクシーに乗り込んで、そのまま平安神宮に隣接した京都市美術館まで直行...あっという間に到着しました!

 ところが、である。簡単には入れてくれない。結構な人垣がみえる。もう閉館も近い時間なのにプラカードを持った人が叫んでいる。「ただいま50分待ちです。」 あっりゃ~、人気あるんだね~。そりゃそうか。フェルメールだし。3連休の中日だし。テレビでもやってたし。

 

 何週間か前の日曜の夜、就寝前に少しだけ見た「情熱大陸」で、たまたまこの展覧会にフリーのキュレーターとして関わった林綾野さんを追っていた。キュレーターと言っても、いわゆる文化施設学芸員という感じではなく、その見識と情熱を持って、展覧会の企画に直接関わる重要な仕事である。彼女はその中で、この展覧会の目玉であるフェルメールが3作品しかない状況下、どのように衆目を集めるのか、心を砕いていた。現地での徹底的な調査により、「手紙」というテーマで何とか行ける、という感触をつかむあたりが、捉えられていた。そういう意味では、内容の展示方法や流れも含め、大成功だったと思う。

 その映像の中で、彼女が、直接見るのは初めてのフェルメールの一枚の絵に対面するシーンが捉えられていた。その前から少し違った雰囲気に移りつつあるのは感じたが、いざ対面し、黙って見つめる彼女の目から溢れる涙は、とても印象的だった。ナレーションで言うように、確かに恋する女性の姿にも見えた。絵画であれ何であれ、表現物は時として人にその瞬間を与えるのだ。

 同じ感動を、僕も初めて対面するフェルメールで味わいたかったが、いや~、それどころではなかった。フェルメールと同時代のオランダ絵画を“コミュニケーション”というテーマで紹介する展示は、最初こそゆっくり観られたのだが、最後の“手紙”のテーマのところで、展示ルームに完全に入場制限がかけられ、フェルメールの絵を目前に、さらに20分ほど待機状態。ようやくたどり着いた3作品。満員電車並の混みようではあったが、きっちり観ることができた。

 イヤリングや椅子の留め金具、装飾品、そして眼球にわずかに当たる、丸みを帯びた光の表現がやはり印象的に目に入り、「光の魔術師」たる所以をこの3作品からでも感じることができ、さらにその絵に潜む物語の一端も感じられた。全体的にも、これだけ混んでいたにも関わらず、不満はあまり残らない、いい展覧会だったと思う。

 しかし、残念ではある。今度は何か別のものでもいいので、あの彼女の感動の片鱗だけでも光来してくれないものか、と思ってしまう。芸術の秋ですからね~。

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 さて、今日の一枚は、この季節になると必ず聴きたくなる懐かしいアルバム、秋の気配を感じさせてくれるポール・サイモン 1975年の名作、 『時の流れに』 にしよう。(ジャケットのポールサイモンの半そでシャツは、その髭も含め、秋の気配とは少し遠いですが...)

 このアルバムは、発売後しばらくして、サイモン&ガーファンクルの大ファンの友人が、どれほど素晴らしいかをまくし立て、LPレコードを無理やり僕に貸してくれた。高校生になりたての僕は、ファンというほどではないものの、こっそりアルバム 『明日にかける橋』 は持っていて、その良さを実感していた。しかし、こと音楽に関しては目の前で、いい、いいと言われると、素直に同調できなくなるひねくれ者だった。随分聴いた後、「まあまあだった」と返したが、僕の頭の中にはしっかりとその音楽が刻まれていた。

 このアルバムは、その年(1976年)のグラミー賞を獲ったのだが、僕が驚いたのはその日本の音楽に与える影響力だった。今までそういう感じ方をしたことが無かったのだが、高校時代に聴いたニューミュージックと呼ばれ始めていた音楽の中に、明らかにこのアルバムの影響を受けたと思われるものがポロポロ出てきて、頭の中にあるそれらの音楽との符合に、日本のニューミュージック系のミュージシャンが向いている方向を、期せずして実感したものだ。

 本格的に聴き始めたのは大学に入ってから。ひねくれた音楽性も、それまでの僕の音楽の世界を根底から覆してくれる友人たちのおかげで、矯正され、今度は素直に、このアルバムを受け入れられた。

 それまではポール・サイモンといえば、ギター片手にフォーク・ソング、といったイメージだったが、このアルバムはその後フュージョンの世界で名を馳せる名プレーヤーたちがたくさん関わっていたり、どちらかといえばブルース系のフィービー・スノウとデュエットをしたりと、それまでのイメージを大きく覆している。

 そんな中、「マイ・リトル・タウン」という、解散後、再度「サイモン&ガーファンクル」名で出した曲がここには入っていて、大いに話題を呼んだが、やはり僕はタイトル曲「時の流れに (Still crazy after all these years)」が一番好きだ。ボブ・ジェームスによるエレピの前奏に始まるこの曲は、なんともいえない緩やかで心地よい、ポール・サイモンの音楽世界を作り出している。間奏で入るマイケル・ブレッカーのサックスソロも、ボブジェームスの弦・管のアレンジも、とても素敵に響く。恐らく、その後広がるAORの走り、と捉えることだってできると思う。大人の音楽なのだ。

 しかし、前述の「日本の音楽界に与えた影響」の一つだが、4曲目の「恋人と別れる50の方法」におけるスティーブ・ガットのドラミング...この演奏に似たものを、その後どれだけ聴いたことだろう。まあ、相手が神様のような人なので、無理は無いにしても、その恐らく難しいであろう奏法を、「どうだ!俺もできるぞ!」という感じで聴かされると、もうその時点で音楽そのものが入ってこなくなって、困った記憶がある。

 とにかく全体を通して、落ち着いた静かな世界が広がっている。どんなににぎやかな楽曲も、印象は静かだ。それはポール・サイモンの声にも要因があるのだろう。秋を感じさせるのはその声のせいかもしれない。

 秋の夜長にポール・サイモン。いいと思いますが、おひとついかがですか?

 

 

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